アジア大会で3本塁打、これ以上ないアピールをしたが…
長嶋(茂雄)に並ぶ記録を打ち立てた六大学野球のスターが日本球界をスルーしてアメリカに渡ると聞きつけたマスコミも騒ぎ立てる。
10月22日には『スポーツニッポン』が早くも「広野ドジャースへ」という記事を飛ばした。
記事では西鉄スカウトが「ドラフトなんか作るからいい選手がどんどん逃げていってしまう」と言えば、近鉄の永江球団社長も「ランクの書き直しをしなくてはいけない」とコメントを発するなど球界全体が広野の動向に注目していたことがうかがえる。
このようななか、1965(昭和40)年11月17日、第1回ドラフト会議が開催される。前出スポニチの記事では中日スカウトが広野に対して「精神的な弱さ、つまり野生味に欠けるような感じはあるが……」とコメントしていたが、当の中日から広野は3位で指名されたのである。
ただ、広野の心はすでにアメリカにあった。中日の指名を意に介さない男の目は、ハートフィールドの視察がある12月4日からのアジア大会を見つめていた。
早稲田大学野球部の安部球場で大会前の合同練習が行われると、メンバーは開催地のフィリピン・マニラを訪れた。
5勝1敗で優勝を果たした日本チームを牽引したのは、3本塁打を放った広野だ。合同練習から視察に訪れていたハートフィールドへ、これ以上ないアピールぶりだった。
「アジア大会後の12月25日、前田監督、鈴木さんと帝国ホテルで飯を食いながら、ドジャースから送られてきた視察内容の手紙を読んだんです。そこには、獲得の意思が書いてありましたが、留学というんじゃなしに、骨を埋める覚悟があるなら受け入れてやろうという条件付き。というのも、マッシー村上さんの問題が影響してるわけですわ。広野もマッシー村上のようになっては困るとオマリーさんは思ったわけです」
マッシー村上こと村上雅則はアジア人初のメジャーリーガーだ。
1964年に南海ホークスの選手としてアメリカへ野球留学に来た村上は、マイナーからメジャーへ昇格。メジャーで投げるには契約書へのサインが必要なのだが、これが南海との二重契約となり、日米間で問題となったのである。
こうした経緯もあって、オマリーは広野へ「覚悟」を求めたのだ。
アメリカに骨を埋める覚悟とは、徳島の実家との離縁に等しい。とても、自分だけでは決められなかった。この日、広野は父へ初めてアメリカ行きの希望を伝えた。
「親父は明治生まれで、満州に渡って、敗戦後に命からがら引き上げてきた男ですからね。『アメリカなんてとんでもない!中日が指名してくれたのにどういうことや、ふざけるな!』と。息子がアメリカへ行くようなら切腹しなきゃいけない、ぐらいの勢いで、反対されたわけですわ」
広野の父親にとっては、まだアメリカは敵国であり、戦後は終わっていなかったのである。
また、広野の次兄は経済的に浪人ができなかった。そんな事情もあり、次兄は阪急へと入団し、プロで得られた給料で広野家の家計を助けたのである。
そんな家庭事情のなかで、広野は万全のサポート体制で慶應大に合格したのだ。一家総出で支援した結果、アメリカに骨を埋めるとはどういうことかと怒る父の気持ちもわからなくはない。
当の広野もアメリカの技術を学び、将来は日本のプロ野球で活動したいと考えていたため、アメリカに骨を埋めるつもりは毛頭なかった。
こうしてドジャースへ断りを入れ、広野のメジャー球団との契約は幻と消えたのだった。
文/沼澤典史 写真/Shutterstock