日本学生選抜のユニフォームは「KOMAZAWA」だった?
1965(昭和40)年11月17日、日本のプロ野球界ではじめてのドラフト会議が開催され、広野功はいわばドラフト一期生として中日から3位指名を受けて入団している。
だが本人としては、大学3年の頃から、アメリカに目が向いていたという。
広野がアメリカを意識したきっかけは、3年次の1964年10月11日に開催された東京五輪のデモンストレーションゲームだ。
この日、日本学生選抜と社会人選抜がそれぞれ全米アマチュア選抜と1試合ずつ戦い、神宮球場には約4万5000人の観衆が集まった。
そして、大下剛史(駒澤大、元・東映など)や長池徳士(法政大、元・阪急)、末次民夫(中央大、元・巨人)、武上四郎(中央大、元・サンケイ、ヤクルト)など錚々たるメンツの中で広野は4番ファーストとして起用されたのである。
「帽子には『J』と書いてましたけど、共通のユニフォームまで作る時間や取り仕切る連盟がないから、みんな駒澤大のユニフォームを着させられました。その前の日本選手権で駒澤大が優勝したせいで、駒澤大から選ばれたメンバーが多かった。だから、他の大学の選手も『KOMAZAWA』ユニフォームで揃えなさいということ。なんとも乱暴な話なんですよ」
ちなみに、社会人選抜も同様で都市対抗野球で優勝した日本通運のユニフォームを着用。胸には「JAPANEXPRESS」の文字が刻まれた。
そんなちぐはぐなユニフォームに、広野は苦笑いするが、試合が始まるとそんな不満は吹き飛んだという。
広野に興味を示したドジャース
アメリカの選手のプレーや体格に圧倒されたのだ。
試合は学生選抜は2対2でアメリカと引き分け、広野はノーヒットに終わる。ただ、この経験を経て広野のなかでは、アメリカで野球を学びたいという思いが沸々と湧いたのである。
その気持ちを受け止めたのが、慶應大の前田監督だ。
「お前なら、日本石油、日本鋼管、カネボウだろうが、慶應ラインでどこへでも行けるが、就職どうするんだ?」と進路を尋ね、これに広野が「アメリカに行きたい」と即答すると、さっそく動き出したのである。
前田は伝手をたどり、繋がったのは鈴木惣太郎である。
鈴木といえば、プロ野球草創期の日米野球交流に尽力し、野球殿堂入りも果たした日本球界を語るうえで欠かせない人物だ。
1934(昭和9)年の日米野球の際は来日を渋るベーブルースの説得のため、アポ無しで散髪中の彼のもとを訪れたことは有名である。
また、戦後はプロ野球再興のため、GHQに接収されていた神宮球場、阪急西宮球場、阪神甲子園球場の解除に奔走したことでも知られる。
アメリカとの太いパイプを持つ鈴木は「そのフロンティア精神は素晴らしい。応援する」と快諾し、ドジャースのオーナーだったウォルター・オマリーへ話を持っていったのだ。
六大学を代表するスラッガーだった広野に興味を示したドジャースは調査を開始し、当時中日にドジャースから臨時コーチとして来日していたハートフィールドに広野のレポートを出すよう指令が下った。