(前編はこちら)

後の「さそり」リーダー・黒川芳正との出会い

1972年夏、京都の集会で釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)メンバーや、船本洲治さんと出会ったことにより、宇賀神さんは寄せ場における日雇い労働者の闘いを知った。

「東京に帰って、『面白い会議があるから』と誘われて、初めて山谷へ行った。それが『底辺委員会』で、そこで黒川くんと会った」(宇賀神さん)

1972年秋のことだ。なぜ、「さそり」リーダーとなる黒川芳正さんが山谷にいたのか。宇賀神さんの取材に同行する道中さん(仮名・前編参照)男性が、説明してくれた。

「1972年当時、山谷では『現場闘争委員会(現闘委)』、釜ヶ崎では『釜共闘』の2つが、現場で闘っていて、両者の関係を繋いだのが船本だった。現闘委の支援組織として、黒川くんを中心に『底辺委員会』が活動していた。

黒川くんは都立大哲学科闘争委員会で活動して、自分の冊子を山谷近くの印刷所に印刷に来たのが1971年。そこに当時、船本がいて、理詰めの黒川くんとはタイプがだいぶ違うけれど、2人はよく話し合っていたし、きちんと話し合える関係性だったと思う」

写真はイメージです
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とはいえ宇賀神さんにとって、初めて会った黒川さんは、「不気味な印象で、近寄りがたい人」でしかなかった。

「実際、黒川くんの印象は最悪だった。でも、底辺委員会の会議に皆勤で出ていたのは、山谷について知りたかったからだと思う」(宇賀神さん)

これまで沖縄、三里塚と1人で動いてきた宇賀神さんがまさか、1年もたたないうちに、この黒川さんと「さそり」というチームを組むことになるのだ。

「私のようないい加減な人間が、黒川くんのような優等生的な活動には合わないのは確か。ただ自分には合わないけど、なんか、憧れのようなものはあったんだろうな。いろんなことが整理されていて、キチキチと行なうという」

宇賀神さんの隣で、道中さんが笑う。

「黒川くんは、喋らないから。酒も全然、飲まないし。彼は会議に出て、発言はしないけれど、ちゃんと次の日にレジメを作ってくる。当時の底辺委員会で、彼の役割は大きかった。雑多な討論の中で、きちんと方向性をレジメとしてまとめる。それは、貴重な役割。そんな人、山谷にはいないから」(道中さん)