「さそり」リーダー、黒川芳正との出会い
不思議なのは、宇賀神さんはいつも単身で、興味や関心のあるものに飛び込んでいくということだ。自伝(注5)には小学生の頃、立ち入り禁止と言われた林の一角に入り込み、自然の中で1人、飽きることなく楽しんでいた時間がいきいきと描かれているが、そうした「性分」がそもそもあるのだろうか。
「そう。いつも、一人で動く。それが、好きなんですよ。自分で、判断して」
1971年春、明治学院大学に進学。学内は学費値上げ阻止、ロックアウト粉砕闘争の真っ只中。宇賀神さんは大学当局の不当性に抗議する「クラス闘争委員会」の活動をしていたが、教室でのクラス討論中に逮捕されてしまう。容疑は、「建造物不法侵入」と「威力業務妨害」。どちらも濡れ衣だが、3週間近く勾留された。
やがて「クラス闘争委員会」は解体し、宇賀神さんは多くのメンバーが選んだ大学を去ることにも、授業に復帰することにも踏み込めないまま、どうしたらいいか悩み続けた。
「1972年の始まりは暗かった。連合赤軍事件。あれで、運動は停滞してしまった。人を殺すってことが大きな悪影響を与えたことは確か」
1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港で乱射事件=リッダ闘争(注6)が起こる。
「仲間殺しではなく、敵に打撃を与える闘いはこうしてやるのだと、身をもって示してくれた。巡礼者を巻き込んでしまったのは、失点だけど」
宇賀神さんは校舎から、「決死作戦断固支持」のビラを1人で撒いた。夏、ある男に誘われ、京都大学でのリッダ闘争「戦士追悼集会」に参加したことで、宇賀神さんは寄せ場へと引き寄せられる。
「夜、釜ヶ崎の釜共闘のメンバーと関西の底辺委員会の話し合いがあり、僕も参加した。そこで、船本洲治(注7)と初めて出会った」
1972年秋、ある会合への誘いを受け、山谷へ向かったのは「山谷とはどんなところか、知りたい」という好奇心からだ。会合とは「底辺委員会」、その司会を務めていたのが黒メガネ、黒シャツ、黒ズボン、黒靴と、全身“黒ずくめ”の、のちの「さそり」リーダー、黒川芳正さんだった。
取材・文/黒川祥子
(注5)『ぼくの翻身(宇賀神寿一 最終意見陳述集)』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)
(注6)1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港で起きた、日本人活動家3名がイスラエルに抗議し、パレスチナ民衆解放のために実行した乱射事件。奥平剛士と安田安之が死亡、岡本公三が拘束された。
(注7)1945年、広島県呉市生まれ。「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」(釜共闘)メンバー。寄せ場の日雇い労働者を真の革命主体と捉え、釜ヶ崎や山谷で活動。黒川芳正と親交あり。75年6月、沖縄嘉手納基地ゲート前で焼身自殺。遺書に「東アジア反日武装戦線の戦士諸君! 諸君の闘争こそが東アジアの明日を動かすことを広範な人民大衆に教えた。この闘争いまだ端緒であり、諸君たちは部分的に敗北しただけである、私は、諸君と共に、生き続けたいために死ぬのである」と記す。