“なにも分かっていないバカ”だったころには戻れない
──バンドマンとして多くのファンに元気や活力を与えながら、プライベートでは親しくされたお姉さんの死というショッキングな経験をされたわけですが、それがファンとの距離において影響することはなかったですか?
ファンの方々についていえば、変に気を使うこともなく、純粋に音楽やパフォーマンスを楽しんでくれていたなと思います。そもそも、ファンに対して「私は大阪西成女医不審死事件で姉を亡くしました」という“公式発表”みたいなことはしていないんです。それでも、なんとなくみんな知ってくれて、でもライブは楽しんでくれたという感じでしょうか。
──事件についてはオフィシャルな場でファンに知らせず、自然と浸透していったというのも、モーモールルギャバンとファンの関係性が分かるような気がします。
明確にいつ発表したというのはなくて、ある日突然、「もう言ってもいいかな」と思ったんですよね。私たち家族や支援者は毎月、情報提供を呼びかけるビラを西成で配っていますが、SNSで唐突に「明日、西成でビラ配りします」って投稿した感じでした。
今は、ライブで「僕には2009年に亡くなった姉がいるんですが、その姉が好きだった曲です」と言ってから「パンティー泥棒の唄」を弾き語りしています(笑)。
──その曲紹介は、悲しみもありつつおかしみも誘いますね。事件後、楽曲作りなどに変化はあったのでしょうか?
楽曲については、回答が難しいですよね。同志社大学の系列の高校に通っていた私は、同級生とバンドを組んでいました。その同級生が、今のベースです。
その後、同志社大学へ進学して組んだバンドが現在のモーモールルギャバンの原型になっているのですが、あの当時は“なにも分かっていないバカ”な自分たちにしか作れない曲があって、それが一定の評価をいただいたんですよね。「ボキャブラリーが貧困なのに一生懸命やっている感じがいい」と言っていただいたりして(笑)。
翻って事件のあとは、やはりいろいろなことを考えるじゃないですか。“なにも分かっていないバカ”だったころには戻れないというか。だから、意図的に楽曲作りを変えてはいないものの、もしかしたら変わった部分がないとも言い切れないなとも思います。
もっとも、全体的な楽曲の変遷とは別に、個別的なことに言及するなら、ド直球で姉のことを描いた歌もあります。「Good Bye Thank You」(2011年12月7日発売)という曲ですね。