自分がマンガを読んでいる姿に疑問を持つ

すると水原はこんな返事をしてきた。

自分の指す「マンガ」というのは、活字に対するマンガ、ジャンルとしてのマンガではありません。自分が言うところのマンガはただの娯楽、趣味として読んでいるマンガのことです。

活字が高級でマンガが低級とは考えていません。マンガの持つ「力」は認識しています。マンガは好きで以前はよく読んでいました。心が揺さぶられることもあり、深いものです。手塚治虫さんの作品は読んだことはありません。

自分がいささか否定的なニュアンスで書くのは、被害者の方に思いを致したとき、自分がマンガを読んでいる姿に疑問を持つからです。

「人を殺しておいてマンガ!?ふざけんな!」というのが一般論だと思います。ただ、マンガから得られるものがあるのも事実です。藤井さんのおっしゃる通り、すばらしいものもたくさんあります。ですが自分で買ってまで読むべきでないなと、そのお金をたとえば賠償金などに充てるのが筋ではないかと考えるのです。

藤井さん、たとえば自分が「ONE PIECE」や「鬼滅の刃」を毎月買っていたらどう思います?「こいつ反省してないな」と思いますか、それとも反省は別と考えますか。

自分はこれまで「欲」に呑まれて生きてきました。その帰結として今、ここにいます。ですので、(買わないのは)その欲のコントロール、自制の訓練のひとつとしての意味もあります。本音の部分ではやはり読みたいです。

冒頭のただの娯楽、趣味として云々の補足ですが、マンガを読むとき、ストーリーを楽しむのが第一義で、そのプロセスでたとえば勇気や希望、愛や悲しみや痛みなど、そういったものを得ると思います。

なので娯楽が先にあり、そこから得るものはその後にあるので、後ろめたさを覚えます。ニュアンスがきちんと伝わるかわかりませんが。これは前回の手紙に書いた同囚と以前、論を交わしたのですが「んー、やっぱりそうだよな……」と互いになりました。

社会の人から見ると取るに足らない事柄に思えるかもしれませんが、ここにいる自分たちにとっては、そういった一つひとつが重要な意味を持つのです。

写真はイメージです
写真はイメージです

私はこの水原の質問には虚を衝かれた感じがした。流行りの漫画作品が世間的に高い評価を得ていて、かつ更生に役立つという理由ならば定期的に読んでも(読ませても)いいのだろうか──。

結論から言えば、構わない、と思う。その漫画作品が「社会」の一部ならば、それに触れさせることも意味があるのではないか。いい作品に出会えば、自分の血肉になる。作品の是非は自分で決めればよい。

が、彼の言っていることの本質は、今自分がおこなっていることは被害者への謝罪の心をより育てるためになるのかどうかを一義的に考えてきたが、もっと多角的に知見を得ることが、迂遠なようでも「贖罪」につながるのではないか、という自身なりの迷いだろうと思った。

そして、漫画作品の世界に熱中するあまりに、他のことを考えられなくなるのではないかという、水原なりの畏れのようなものではないだろうか。