泳いで脱走を試みる娼婦も
「渡鹿野島ねぇ、昔はピンク島なんて呼ばれとったけど、それも過去の話よ。今はアレ(置屋)も全滅したし、当時と比べものにならないほど変わったなぁ……」
かつて「売春島」と呼ばれた離島を見つめながら、地元のタクシー運転手はそうポツリとつぶやいた――。
三重県志摩市の的矢湾の奥に位置する、渡鹿野島。周囲およそ7キロほどで、本土からは小型船でしかたどり着けないこの島が、売春島と呼ばれるようになったのは1970年ごろのことだ。『売春島「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』(彩図社)の著者で、漫画『売春島1981』(大洋図書)の原作を担当したノンフィクションライターの高木瑞穂氏はこう語る。
「その時期からパブやスナックを装った『置屋』(売春斡旋所)が立ち並ぶようになり、慰安旅行などの団体客を中心に人気を集めだしました。ピークを迎えたのは1980年ごろ。島内には13軒もの置屋が乱立し、夜になるとメイン通りは、“買う男”と“売る女”でお祭り騒ぎになっていたようです。
当時はホテルや旅館のほか、ゲームセンターやパチンコ屋、ストリップ劇場なども営業しており、小さな歌舞伎町のような状況になっていました」
当時の置屋に在籍していた娼婦は、10代後半から40代までさまざま。旅館やホテルで開かれる宴会が顔見せの場になっていたため、彼女たちは60分2万円の「ショート」を宴会までに何人かこなし、4万円の「ロング」で男性客と一晩を過ごすという、まさに売春漬けの日々を送っていた。
「娼婦のなかには自分の意志ではなく、付き合っていた男やブローカーに『売り飛ばされた』女性も少なくなかった。そこで島から脱走を試みた女性もいたようで、過去には、真夜中の海に飛び込んで対岸(本土)まで泳いで逃げた少女がいたそうです。
それでも当時、渡鹿野島を訪れる男性客はとんでもなく多かったわけですから、借金を返し終わっても島に残って売春を続ける女性もいたと聞いています」(同)
だが、そんな島の一大産業は徐々に陰りを見せていく。平成に入るとバブルが崩壊して団体客が減少。2000年代には、デリヘルなどの風俗業態の多様化が進み、渡鹿野島は徐々に衰退していったという。
「2016年に開催された『伊勢志摩サミット』以前までは、まだ置屋も3軒ほどあり、20代の東南アジア系の女性や、40~50代の日本人女性など20人ほどの娼婦が在籍していました。
ところが、そのサミットの影響で警察の目も厳しくなり、このまま営業を続けていくのは難しいとのことで、置屋のオーナーたちも閉業を決めたそうです。
その後も、箱型の置屋が1軒と派遣型の置屋が1軒で、合計4人の娼婦がいたそうですが、それも2年前に島の関係者から『最後の子も出ていった』と聞いたので、業態としては完全に終わったんだと思います」(同)