誰もが満足できるように考えられたthe原爆オナニーズのライブ

激しいライブに、モッシュやダイブの嵐。(撮影/木村琢也)
激しいライブに、モッシュやダイブの嵐。(撮影/木村琢也)
すべての画像を見る

TAYLOWへのインタビューは、2024年5月25日、東京・下北沢CLUB Queでのthe原爆オナニーズのライブ当日に敢行した。

リハーサルと本番の合間に時間を取ってもらい、ライブハウス近くのレンタルルームの一室で質問に答えてもらったのだ。

これまでの長いキャリアの中で、幾度となく聞かれてきたであろう事柄にも、穏やかな表情でじっくり考え、丁寧に答えを返してくれるTAYLOWは、パンクの哲学者といった風情だ。

音楽だけではなく一人の人間としての生き方そのものを、“パンク”を軸に実践するTAYLOWの言葉ひとつひとつは、含蓄に富み考えさせられるものだった。

インタビュー後、取材スタッフ揃ってライブに参戦した。

ステージ上のTAYLOWは、取材時の物静かな雰囲気とは打って変わり、のっけから弾けていた。
 
僕はthe原爆オナニーズのライブをこれまで数多く観ているが、いつも強い安心感がある。披露される曲はライブごとに入れ替わるものの、古くからのファンも新しいファンも満足できるように新旧の曲を織り交ぜつつ、代表曲は決して外さぬよう組み立ててくれているので、必ず心ゆくまで楽しめるのだ。

オープニングからアンコールまでを含めたこの日のセットリストは、以下のようなものだった。

Dog Eat Dog
No No Boy
なんにもない
What’s Up
Misunderstand
Dead Or Alive
Down In A Flame
発狂目醒ましくるくる爆弾
I Will
Step Forward
Mind Breaker
Another Time Another Place
(アンコール1)
Nuclear cowboy
Another Country’s
(アンコール2)
香り

最後の『香り』は、日本のハードロックバンドの嚆矢である外道が、1974年にリリースした曲のカバー。かねてよりthe原爆オナニーズが得意とするナンバーだが、実はこの日に演奏することは予定していなかった。

ところが、対バンとして最初に登場した画鋲(宮藤官九郎率いるスリーピースパンクバンド)、二番手のCaolly(MO’SOME TONEBENDERの百々和宏率いるパンクカバーユニット)がともに、一曲目に『香り』を演奏(画鋲は『画鋲』という替え歌だが)。

その流れを汲み、アンコールで再登場したthe原爆オナニーズに対して複数の客が『香りやってー』とリクエストを飛ばした。するとTAYLOWは「最近、あんまりカバーはやらんのだけど。まあ、画鋲が演ったときから、こうなる予感はしてたわ」と苦笑しながら、『香り』を披露したのだ。

想定外のことであり、リハーサルさえしていなかった曲なのに、その演奏は圧巻。ベテランバンドの貫禄を十分に見せつけるもので、ファンを大いに盛り上げていた。

ライブには宮藤官九郎率いる「画鋲」らも参加。藤井悟のDJなど、まさに「たのしいおんがくのじかん」だった。(撮影/木村琢也)
ライブには宮藤官九郎率いる「画鋲」らも参加。藤井悟のDJなど、まさに「たのしいおんがくのじかん」だった。(撮影/木村琢也)

バンド事始め。原爆オナニーズとthe原爆オナニーズ

質問をしっかり聞き回答する。取材もステージ同様、真剣勝負の表情である。(撮影/木村琢也)
質問をしっかり聞き回答する。取材もステージ同様、真剣勝負の表情である。(撮影/木村琢也)

“the原爆オナニーズ”の活動開始は1982年だが、「the」が付かない“原爆オナニーズ”はそれよりも前に結成されている。

「1980年夏にスタークラブからギター・ヴォーカルのRYOJIO(原爆オナニーズでは「良次雄」)とドラムのOHGUCHI(同、「大口ミキオ」)くんが抜け、そこに、ピブィレヌを抜けたベースのHikoちゃんと、スタークラブにいたBUKKA(同、「ブッカ」)がギターで入り、その4人で、各メンバーがリーダーの4つの名前を持ったバンドはスタート。

良次雄がリーダーの時は原爆オナニーズというバンド名で、活動を始めました。
でも半年ぐらいで消滅しちゃって、大口ミキオを中心にニューロンという新しいバンドが始まったんです。僕は、ニューロンの練習に遊びにおいでと誘われ、そのままズルズルと不定期なメンバーになったんですよ」

1982年3月にEDDIEがスタークラブを辞め、ニューロンにゲスト参加する。ニューロンは20分もあるアヴァンギャルドなポストパンクの曲を演奏するバンドだったが、EDDIEが「原爆やろうぜ」と良次雄に置き手紙した。

すでに解散した“原爆オナニーズ”のレパートリーは、良次雄が作ったスタークラブ路線の曲が中心だったが、大口ミキオの意向に添い、ニューロンでそうした曲を演奏するようになった。そこで改めて原爆オナニーズを復活させることを決め、心機一転のためバンド名に「the」を冠し、1982年5月、新しいスタイルの曲を作り始めた。

1983年2月に大口ミキオが、1982年3月に良次雄と中村達也(大口に代わり参加)が脱退する。

1983年4月、SHIGEKI(ギター)、1983年5月にMAKOTO(ドラムス)が加り、新たなメンバーとなったthe原爆オナニーズが再度スタートする。

「the原爆オナニーズとして最初に作ったのは、『発狂目醒ましくるくる爆弾』。あれは2コードぐらいでガーっというロックをやりたくて、イギー・ポップみたいなリフだけがあるところに歌詞を載せたスタイルの曲です。

エディと僕が中心となって原爆を立て直していった当時、僕はザ・サイケデリック・ファーズ(1977年にイギリスで結成された、ポストパンクの代表格バンド)と4スキンズ(1979年からイギリスで活動する、スキンズカルチャーを象徴するOi!パンクバンド)にハマっていたんです。だから、サイケデリック・ファーズのようなのっぺらぼうで突き進むリズムに、4スキンズみたいな激しさをくっつけた曲を目指しました。

原爆が他のパンクバンドとちょっと違って見えるのは、そんな風に80年代のポストパンク色を強く持っているからだと思います」

1984年4月、the原爆オナニーズは7曲入りファーストEP『JUST ANOTHER the原爆オナニーズ』を発売する。限られた曲数の中に、多角化する当時の最新パンクカルチャーを反映させた、画期的なレコードだった。

「『JUST ANOTHER the原爆オナニーズ』に入っている曲のなかで、『No No Boy』だけはOi!だけど、『Life Is A Gamble』や『Propaganda』なんかは完全にポストパンク。エイリアン・セックス・フィーンドやセックス・ギャング・チルドレン(ともに1982年からイギリスで活動していたポストパンクバンド。当時は“ポジティブパンク”、のちには“ゴシックロック”などともジャンル分けされた)みたいな感じだからね」