全身全霊の芸あるディスりが人の心を動かす

――『愚道一休』は時代背景も面白いですね。室町末期、幕府も倒れかかっているし、一休がいた禅宗も五山を中心とした体制が腐敗しきっていて、権威が危うくなりつつある。庶民の間に一向宗が広まり一揆が起きる。やがて応仁の乱へと時代が進んでいくわけですが、そこで応仁の乱の西軍の総大将、山名宗全(小次郎)が一休に関わりを持ってきます。山名は赤松を超えるとんでもない武人ですよね。

 僕はチャップリンが好きなんですけど、チャップリンがヒットラーを見た時に、こんなようなことを言ってるんですよ。「ボタンのかけ違いで、俺があいつになってもおかしくなかった」。
 それって環境や時代だと思うんですよ。生まれた環境や時代によって、チャップリンにもなりうるし、ヒットラーにもなりうる。山名宗全も、落ち着いた環境に生まれていたら、時代が平和だったら、ああはならなかったと思うんですね。赤松越後守も。
 

―― 登場人物も多彩だし、時代背景も変転が激しい。場所も京都だけでなく、吉野や堺も描かれています。

 畿内だけですけど、一休はあちこち行ってます。八十年以上生きてますからね。それだけ長い時間を書くのはやっぱり大変でした。

―― 先ほど時代と環境との関係をおっしゃっていましたが、一休の人生も出生からして政治がらみで、乱世という時代にも翻弄され、波瀾万丈ですよね。

 手塚治虫さんの『ブッダ』を読んでいて、大変だなと思ったのは、ブッダみたいに完成された人が主人公だと、周りの人の波瀾万丈を描くしかないんですよね。その点、一休は全然悟っていない(笑)。そこはちょっと書きやすかったかもしれないですね。自分では悟ったと偉そうに言っても、「絶対悟ってないやん」みたいなツッコミを入れたくなることの繰り返し(笑)。
 

―― 少年時代の千菊丸は優等生的なキャラですけど、後半になると「風狂」という言葉にふさわしい型破りな僧侶になっていきます。妻の葬儀で、亡き妻を悼むこともなく、自分への遺偈(臨終の際に禅僧が与える言葉)を求める商人に向かって松明を投げつけたり、禅宗の権威に刃向かったり。かなり無茶をしていますよね。

 そうですね。何であんなことができたのかはわからないですけど、今だったら、YouTubeで生配信するような人になっていたのかなと思ったりはしました。

―― 私はちょっとパンクロックかなと思いました。

 中指を突き立てるみたいなところがですね。僕はラッパーが即興でバトルする「MCバトル」をイメージしていました。相手をディスるんだったら、芸がなきゃいけない。それが最低限の礼儀。
 一休は大きな朱太刀を持って町を練り歩くんですよね。で、理由を聞かれると太刀を抜いてみせる。中身は木なんです。そして、今の禅宗はこれと同じで、なりは立派だが中に刃はない、と言う。
 ラップが韻を踏んで「おっ!」と思わせるように、一休の風狂も洒落が利いてるんですよ。中指突き立てるにしても突き立て方が大切だろうって。僕の一休は、ラッパーの呂布カルマと、格闘家の平本蓮がモデルなんです──半分冗談ですけど。
 一休は禅宗をディスるわけですけど、たんなる論破じゃないんです。全身全霊でディスる。自分の生きざま自体が芸術品。一休は詩をよく書いていて、その方面でも有名ですけど、一休の詩だけが芸術なんじゃなくて、一休の生き方自体が芸術なんじゃないかと思いますね。
 

―― ラッパーや格闘家と禅僧は、現代ではかけ離れた存在のようですが、当時の人たちにとっては説法も、ラップや格闘技のように娯楽の一つだったのかもしれないですね。小説の中にも出てきますが、一休は能楽や踊りなど芸能者たちからも慕われていたそうですし。

 僕はYouTubeでMCバトルを見るのが好きなんです。うまいディスり方をした人の動画は何百万回も再生されていて、一休もそんな感じの人気者だったんじゃないでしょうか。型破りであると同時に、芸のある生き方。だから人の心を動かす。当時の人にしてみたら、そういう生き方ができるのってうらやましかったんじゃないのかなと思いますね。

「犬に悟りの素質はあるか」禅の公案をどう解くか

―― 禅については知識がなかったと先ほどおっしゃっていましたが、禅僧の方たちにお話をうかがったんですよね。

 お寺のお坊さんは二人、それから雲水さん(修行中の僧侶)にも話を聞かせてもらいました。禅の公案のことを聞いたりもしたんですが、煙に巻かれ続けた感じで難しかったですね。参考になったのはむしろ日常のちょっとしたことで、折れた警策をくべた焚き火で焼いて食うあんパンがうまいんやとか(笑)。『愚道一休』にも書いたんですけど、修行中に、禁じられている菓子を便所の前でこっそり食べたとか。「臭かったよな、あれ」とかお坊さん同士が言っているのを聞いて、やってることは高校の部活と一緒やなと。僕も高校の時バレーボール部で厳しかったんでその時を思い出しました。「ああ、やっぱりこの人らも普通の人なんだ」と。
 

―― 木下さんも坐禅を組まれたそうですね。

 今もやってます。近くにあるお寺が坐禅会をやっているのをインターネットで見つけて申し込みました。
 当日は朝九時から。服は普通の洋服でもいいんですけど、まず作務をやります。座布団干したりとかそういう作業のことなんですけど、それが終わったら坐禅をして、それから昼食を食べるんです。無言で。最初、音を立ててしまったらめっちゃ怒られました。午後は講義が一時間ぐらい。それが終わったらまた坐禅。希望者は公案修行もさせてもらえるそうです。公案修行の中身を小説に書いたら駄目だから、『愚道一休』が終わったら挑戦しようかなと思って、今は坐禅だけやっています。一カ月か二カ月に一回のペースですね。

―― 読者は作中に登場する「犬に悟りの素質はあるか」という禅の公案に頭をひねると思うんですが、木下さんはどうお感じですか。

 難しいですよね。理屈だけわかっても仕方がないことなので。いろんな本を読むと、「今、ここ、この時」を大切にするのが公案の肝だ、とあって。そう考えると、普通に文字づらとして答えは出たとしても、実感として腑に落ちて、それが行動として伴うようになるまでが難しいんだと思います。
 

―― 読んでいてアニメの『一休さん』のとんちを思い出しました。思い返すと、あれにも禅的な要素が含まれているんですよね。

 一休さんのとんち話は江戸時代に広まったらしいですけど、公案の禅問答から来てるんでしょう。だから、決してたんなるウソ、フィクションではないと思うんです。
 一休宗純がやりたかったのは、みんなに「禅って何だろう?」という興味を持たせることだったんだと思います。アニメの一休さんもちゃんと禅に興味を持たせているから、一休のねらいに通じるものがあると思います。

―― 作中に出てきましたが、禅には臘八接心という、ものすごい修行があるわけですよね。不眠不休で七日七晩の坐禅を組むという。この修行で心と体を壊し、還俗せざるをえなかった雲水も多く、命の危険さえあると書かれています。

 本当に幻覚や幻聴が起きるらしいです。そういう修行が現代まで続いているわけですからすごいですよね。
 

―― 禅は求道的な世界。その求道が、この小説ではタイトルに愚かという字を当てて、『愚道一休』としています。最後まで読み終えて、まさにこれしかない、見事なタイトルだと思いました。

 一休の生涯を表面的に辿ると「愚かだな」って思うかもしれません。南朝ゆかりの母と北朝の天皇の間に生まれたわけですから、うまいことそれを利用すれば、もっと楽に生きられるのにそうはしない。落命寸前まで行ったことが二回くらいあるし、僧のくせに女にも狂う。愚かですよね。けど、そういう人のほうが愛されるんじゃないでしょうか。「愚」かな道と「求」める道は音が一緒ですから、これはいいなとタイトルに使いました。
 

―― 禅を探求し、死に近づきながらも、そこからUターンして生きることを選ぶ。そこに一休の人生の核があるような気がしました。

 一休がいいのは、どんな時も全力なところです。全力過ぎてヤバいことになったりするんですけど、八十年以上生きて、一瞬たりとも手を抜かないのはすごい。遊び球がまったくないピッチャーに感動するみたいな感じです。たまにデッドボールはあるけど。

愚道一休
木下 昌輝
愚道一休
2024年6月5日発売
2,200円(税込)
四六判/448ページ
ISBN: 978-4-08-771869-0
「立派なお坊さんになるのですよ」
母の願いを受けて、安国寺で修行する幼い千菊丸だが、禅寺は腐敗しきっていた。怠惰、折檻、嫉妬、暴力。ひたすら四書五経を学び、よい漢詩を作らんとすることをよすがとする彼の前に将軍寵臣の赤松越後守が現れ、その威光により、一気に周囲の扱いが変わっていく。しかし、赤松は帝の血をひく千菊丸を利用せんとしていることは明らかだった。
建仁寺で周建と名を改め、詩僧として五山の頂点が見えたのにも拘わらず、檄文を残して五山から飛び出して民衆の中に身を投げる。本当の救いとは、人間とは、無とは何なのか。腐敗しきった禅を憎み、己と同じく禅を究めんとする養叟と出会い、その姿に憧れと反発を同時に抱えながら、修行の道なき道をゆくのだった。己の中に流れる南朝と北朝の血、母の野望、数多の死、飢餓……風狂一休の生そのものが、愚かでひたすら美しい歴史小説の傑作。
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