「一億総中流社会」から「格差固定社会」へ
重要な点なので、「格差」をめぐる話を続けます。
歴史上、少数の貴族階級が世代を超えて、「富」や「教育」、「生活・結婚」環境を継承していく社会を「アリストクラシー」(身分社会・貴族社会)と呼びます。本書でも繰り返している通り、江戸時代までの日本はまさに「身分社会」であり、本人の出自に応じた生活環境と教育レベルが厳然としてありました。成人後も同じ身分の人間と結婚し、家庭を築き、次世代を生み育ててきたのが日本の歴史です。
明治維新以降、その「身分社会」が崩壊し、建前上は「個人」の努力で人生を切り拓いていく社会になったことも、すでに見てきた通りです。さらに、太平洋戦争後は国土が焦土と化す中、それまでの社会秩序や階級も崩れ去り、人々は新たなスタートラインに立ったように見えました。
「アリストクラシー」から「メリトクラシー」(能力・業績主義)への移行です。生まれ持った知能と、本人の努力次第で成功をつかむことも可能。意欲さえあれば誰もが働ける時代には、学業も就職も結婚もかなりの部分を「努力」で補い、障壁を突破することができました。
「やる気さえあれば、仕事はある」し、「結婚したいと望めば、結婚できる」「頑張れば給料も上がっていく(男性限定ですが)」前提が高度経済成長期を通じて続きました。団塊世代が今も「自己責任論」を語るのは、こうした背景が影響しています。「人生の成功も失敗も、本人次第」ということです。
しかし今、日本社会で「メリトクラシー」は通用するでしょうか。「俺は小学校しか出ていないが、最終的に日本国の総理になった」実体験は、リアリティを持って若者の心に響くでしょうか。「裸一貫で、財を成した先人たちに続いて、俺も(私も)」と夢を見られる人が、今の日本社会にどれだけいるでしょうか。
世の中は明らかに「アリストクラシー」の時代に逆戻りしています。あるいは教育学者の志水宏吉さんが『ペアレントクラシー「親格差時代」の衝撃』(朝日新書/2022年)で明晰に論じているように、親の経済状態や成育環境もしくは教育計画が、子の成長に決定的な影響を及ぼす時代に変容しているのです。
親の「経済状態」と「願望」が、親子の「選択肢」を増幅させる社会。だからこそ親に「経済状態」の欠落があれば、どれほど「願望」があれど、子の「選択肢」は限られてきます。そうした社会背景的文脈を無視して、「最近の若者は結婚に対する意欲がない」「子を生み育てる気がない」と、安易に嘆くことはできません。
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