名優がほぼノーメイクで演じた、美しく凛とした主人公
――仕事を解雇され、住む場所も失いそうになり、“プラン75”の申請を検討し始める主人公の角谷ミチを、倍賞千恵子さんが演じられました。『男はつらいよ』シリーズなどで知られ、国民に広く愛される俳優を起用した理由は?
主人公がどんどん追い詰められていく悲しいストーリーですが、惨めな人物にはしたくないという思いが一番にありました。大変な状況に直面しながらも、凛とした強さがあって、人間的な美しさがある人に演じてもらいたいと思ったときに、倍賞さんがすぐに浮かびました。
撮影ではノーメイクで演じられたシーンもたくさんあります。こちらからお願いしたわけではなく、倍賞さん自らが選択されたこと。顔のアップを撮らないでほしいとか、逆に照明を当ててくれというリクエストはまったくなかったですし、本当に役としてそのまま生きてくださいました。素晴らしい方でしたね。
現場で特に感じたのは、倍賞さんの所作の美しさ。職場のロッカーを片付けた後に扉を拭いたり、食事の前にいただきますと言って手を合わせたり。そういうことは私は一切演出していません。倍賞さんから自然に出た仕草でしたし、ミチだったらきっとこうするよね、と考えた上で演じられていました。
――脚本を初めて読んだとき、倍賞さんは躊躇されましたか?
どう思われるだろうという心配はありました。“プラン75”という制度に対しては「なんてひどいものだろう」とおっしゃっていましたが、最終的にミチが取る行動や選択に、「これなら」と賛同してくださいました。
――劇中ではミチが歌を歌うシーンもありましたが、倍賞さんが演じられる前提で書かれたものだったんですか?
歌のシーンは、倍賞さんにお願いすると決める前からあったんです。ただ、ミチをサポートするコールセンタースタッフの成宮瑶子(河合優実)が言う「声がいい」というセリフは、倍賞さんとお会いしてから付け足しました。初めてお会いしたときに本当に声が素敵だなと思ったので。
――“プラン75”の申請窓口で働く岡部ヒロムを演じた磯村勇斗さん、コールセンタースタッフの瑶子を演じられた河合さんなど、若い世代も素晴らしかったです。
この映画の中でおふたりが演じられた役は、すごく重要なんです。制度を運営する側の人たちですが、どういうシステムに関わっているかにすごく無自覚で、目の前にいる老人たちの先にはどういう運命が待ち受けているか想像していなかったり、仕事として従順にこなしている。ところが、ヒロムが伯父である岡部幸夫(たかお鷹)と、瑶子がミチと交流することによって、どれだけ非人道的なシステムに加担しているかに気づくんです。その気づき自体が、映画のひとつの希望となり得るのではないかと考えました。撮影に入る前にお話をさせてもらい、理解を深めていただきました。
――ミチが切った爪を捨てずに観葉植物の土の上にパラパラと撒いたり、幸夫が卵を「部屋の中より冷えてるから」と窓の外に出しておいたり。それぞれのキャラクターの個性が感じられるディテールも印象的でした。
なんか、やりそうだなって思ったんです(笑)。日常でどういう暮らしをしているのかというディテールは大事にしたいと思っていて。いわゆる“高齢者”とか“おじいちゃん”とか“おばあちゃん”というキーワードだけで捉えてほしくない。ひとりひとりに生活があって、好みがあって、思考がある。私たちの地続きで年をとった人がいるということを感じてもらいたかったんです。
年齢を重ねたとしても、性格が変わるわけじゃないですからね。自分自身のことを振り返っても、20代の頃と別人になったわけではないですし。きっと、このまま70代になっていくのかなと考えたときに、すべては他人事ではないという思いがありました。