「プロは本当に厳しい世界でした。2年目に怪我をしてしまって、それからは2軍でも試合に呼ばれることがなくなっていきました」
結局、一軍出場がないまま05年、戦力外通告を受ける。3年間だけのプロ野球選手生活だった。
ブラジル人のための語学学校をつくるが……
野球はやめたが、ブラジルに帰ろうとは思わなかった。
「日本では宮崎の人たちや日章学園の監督さんなど、いろいろな人が支えてくれた。野球がだめになったからといって、その人たちに背を向けて帰ることはできなかった。日本で成功している姿を見せることが、恩返しだと思ったんです。それに、日本が大好きになっていたしね」
新しい道は、野球からだいぶ方向を変えて、教育の分野だった。日本に暮らすブラジル人のための語学学校をつくりたい。それは瀬間仲さん自身が来日したばかりの頃に言葉で苦労したからでもあるし、異国でなかなか成功できない同胞のキャリアアップのためでもあった。
「野球をやっていた時期はとにかく楽しくて本当に幸せな時間だったけれど、自分はずっと野球しかやってこなかったことに気がついたんです。だからまるで違うことをしたいという気持ちも強かった」
そしてブラジルで英語教師をしていた姉が合流し、学校の運営をはじめる。選んだ土地は、宮崎でも名古屋でもなく、ブラジリアンタウンとして知られるようになっていた群馬県・大泉だ。
この街では1990年代から日系ブラジル人が増えはじめた。バブルの好景気の中、製造業の人手不足を埋めるため、日本政府が呼んだのだ。1989年に出入国管理及び難民認定法(入管法)が改正され、「日系2世と3世、その配偶者」が日本に定住し、働けるようになる。この決定を受けて、南米に渡った日本人の子孫が、今度は出稼ぎ労働者として舞い戻ってきた。現地からの逆移民ともいうべき現象だが、とりわけ工場の多い群馬県の大泉は町を上げて日系ブラジル人を誘致した。
彼らは地域の産業の支え手となったが、同時に文化の違いや言葉の問題からトラブルになることも多かった。それに、親についてきた子供たちはブラジル人学校には通っても、日本語を学ぶ機会はあまりない。だから卒業後の進路は限られてしまう。親と同様に工場での肉体労働に従事するか、あるいは道に迷い、グレる子も多かった。そこを、どうにかしたいと思っていた
「せっかく日本にいるんだから、日本語を学んで、日本の教育を受ければ、日本社会の中でのチャンスが広がると思うんです」
加えて、英語を学べば、ブラジルに帰っても選択肢は広がる。そう考えて、瀬間仲さんと姉は日本語・英語を学べる学校を開いた。07年のことだった。