伝説の映画とベルーシの死
ブルース・ブラザースのファースト・アルバム『Briefcase Full of Blues』は、79年1月に全米ナンバーワンに到達。ディスコ全盛期にあって突如ブルースが復活したのだ。それくらい彼らの影響力と人気は高まっていた。
映画化の話はハリウッドの重役との電話1本で決まったという。この時、エイクロイドは300ページにも及ぶ脚本を自ら執筆。学生時代に取得した犯罪学や心理学、警察の知識、アンターグラウンドな連中との付き合いなどがフルに発揮されることになった。
しかし、撮影は79年8月からスタートしたものの、ベルーシの重度のドラッグ常用が災いしてスケジュールも予算もオーバーしてしまう。
シカゴ市とイリノイ州の好意的な協力の反面、監督のジョン・ランディスはベルーシとの撮影には疲労困憊したらしいが、それでもベルーシのカリスマ性は疑いようもなかった。エイクロイドはこのトラブルまみれのパートナーを擁護し続けた。
映画『ブルース・ブラザース』は1980年に公開されると大ヒットを記録。無表情なユーモアや破壊的な冒険は、それまでのコメディになかった革命だった(ちなみに映画では二人はサングラスを掛けっぱなしで、最後の最後になってベルーシが一瞬だけ外すのが泣ける)。
特筆すべきは映画全編に貫かれた本物の音楽への愛だ。レイ・チャールズもジェームス・ブラウンもアレサ・フランクリンもこの映画で若いファン層をつかんで息を吹き返した。
そして1982年3月5日、ハリウッドのホテルでベルーシ逝く。ドラッグの過剰摂取が原因だった。享年33歳。死ぬ間際まで自ら出演する映画の企画に取り組んでいたという。
出逢い以来、実の兄弟のようであり、ビジネスのパートナーシップであり、親友でもある。あらゆるものを一緒に追求していた二人の素敵な野蛮人。相棒のダン・エイクロイドは言った。
「ブルース・ブラザースが終わった後、ジョンはもう別のことをやりたがっていたんだ。今度は真面目な役でみんなをあっと言わせたいと。あいつはもがいていた。一方で次々とやってくる連中に無愛想にできなかった。本当にみんなを喜ばせるのが大好きな心優しい奴だったんだ。あのでっかい笑顔とでっかいエネルギーの下には、いつも感じやすく傷つきやすい彼がいた。ジョンにとって人生は大きなごちそうだったんだよ」
文/中野充浩 サムネイル/shutterstock
参考・引用
「ジョン・ベルーシ・インタビュー・ストーリー」(室矢憲治 著/Switch1986年8月号)、「ザ・ベスト・オブ・フレンズ」(Switch1986年8月号)