――なのに高井さんがいなくなっちゃって(笑)。

なんやかんやで早見あかりが入って、有安杏果が入って。有安が入って石丸電気でお披露目っていうときに、バレちゃいかんってことで、有安を段ボールに詰め込んで台車で運んだりしてました(笑)。バレちゃいかんから段ボールに入れるって発想もどうかと思うんですけど。

――当時はスタッフの中でFKDさんが表に出る役割だったんですよね。

出てましたね。MCやってPAやってモギリやって、機材車の運転もして、ホントになんでもやってました。だから川上さんがマネジメントで、僕は現場でなんでもやらされる人みたいな感じでした。いまでもそのときの動画がYouTubeに残ってて、こんな時代あったなーって感じで、ホント青春ですね。なんで僕を出したのかいまだに謎なんですけどね。

――その結果、ファンのあいだでFKD呼ばわりされるようになって。

当時、2ちゃんねるで戸賀崎さんが「TGS」って書かれてたんですよ。それに倣って「あいつは福田らしいからFKDでいいじゃん」っていう流れで。じゃあクレジットもこれでいいじゃんって誰かが「FKD」って入れて、そこから公式になっちゃって。

――FKDさんはデビューシングル『ももいろパンチ』(2009年8月5日発売)の制作には関わっていなくて、そのリリイベ『ヤマダ電機Presents ~ももいろクローバーJAPANツアー2009 ももいろTyphooooon!~』(2009年5月24日~8月16日)には同行したんですよね。

ヤマダ電機の軒先に機材を出して、ももクロが歌って踊って、CDの予約を取って、みたいなことを毎週末やってましたね。北は盛岡、南は九州まで行ってました。 

「ももクロは青春だった」10年ぶりのメディア登場!知られざるももクロ仕掛け人”FKD”こと福田幹大が語る、黎明期のももいろクローバー聞き手:吉田豪_3

徐々に増えてゆくファンたち

――その時点で可能性みたいなものは見えていたんですか?

まったくです(キッパリ)。こっちも音楽屋さんとしての経験が一切なかったですし。ただ、とにかく楽しかったんですよ。メンバーが一生懸命やってるっていうのもありましたし、ライブをやるごとにお客さんが増えていくんですよね。

自分の口コミでこの子たちが売れていくっていうのが、きっとファンの方もおもしろかったと思うんですよ。1回ツアー周ると箱がひとつ大きくなって、「俺この時代から知ってる」っていう、それはうれしいし楽しいじゃないですか。

ツアーから帰って、東京のヤマダ電機でやったときに人があふれて警察を呼ばれるみたいな。当時は渋谷のヤマダ電機の軒先でライブやってましたからね。いまできないですよ、あんなこと。

――確実に怒られますね。

渋谷に行くたびに、よくこんなとこでライブやったなと思って。秋葉原でも、駅を出てすぐの富士そばのところが、当時は空きテナントだったんですよ。そこでもライブやってましたね。

――そういうのってFKDさんのプランなんですか? 話し合いの結果?

場所がないか探して、「ここが空いてる」みたいなことを毎週川上さんと話して。そのときはHappy Music Recordsっていうヤマダ電機傘下のレーベルから出してたので、レーベルの方とも毎週末ワチャワチャやって、気がついたらオリコントップ10にデイリーで入って。こんなんでイケるんだって、当時は思いましたね。こんなんって言ったらあれですけど。