消え行くバブル
師弟関係の重要性を強調してきた創価学会は、池田亡き後、師なき時代に突入する。組織としては、今度は個々の会員が師となり、新たに弟子を育てていくべきだというキャンペーンをはるかもしれないが、それが功を奏するとは思えない。創価学会における師とは、卓越した指導力を発揮するカリスマ的な存在であり、誰もがなれるものではないからである。
しかも、創価学会では霊の観念が希薄である。霊の祟りという観念もなければ、先祖の霊を信仰の対象とすることもない。その点で、霊となった池田が会員たちを見守り、霊界から指導しているといった体制を作ることも難しい。
生前にすでに組織をあげて池田の神格化を推し進めてきたことが、学会の存続にとっては、かえってあだになる可能性もある。池田の存在が実像を離れてはるかに肥大化されていっただけに、その不在は取り返しのつかない事態を生むかもしれない。
そして、神格化が実は虚像化であり、相当に水増しされたものであることが明らかになれば、池田に対する会員たちの関心自体失せていく。すでにその兆候は、生前にあらわれていた。
『新・人間革命』など池田の晩年の著作は、会員の数に見合った部数が売れなくなっていた。『人間革命』に比較して、その内容が単調で物語性に欠けているせいもあるが、すでに池田の著作ならなんでも買うという会員は少なくなっていた。夫人の『香峯子抄』はミリオンセラーになったが、晩年の池田の著作がミリオンセラーになることはなかった。
戸田が偉大な指導者として崇められてきたのは、池田の小説『人間革命』があってのことである。池田が戸田を師として崇めることで、戸田の地位は高まった。もしそれがなければ、戸田は、最終的には必ずしも成功を得られなかった実業家であり、酒を飲まなければ演説もできない気弱な指導者にすぎなかったともいえる。
池田の死後も、精一杯神格化されたその評価を維持するためには、池田を評価し続ける人間が必要である。それができるのは、池田から全幅の信頼を寄せられた一番弟子以外にはあり得ない。その一番弟子が存在しない以上、池田への評価は徐々に下がっていかざるを得ない。
池田の死後、創価学会の会員は、そして創価学会の組織は、池田の存在がいかに大きなものであったのかを改めて認識することになるだろう。
だが、そのときには風船のようにふくらんだ池田の偉大さは、すでに消えかかっている。池田という存在は、実はバブルだったのではないか。創価学会の組織が虚像化によって懸命にふくらまし、池田自身がそれを演じることで保たれてきたバブルは、その死を境に、消滅しようとしているのである。
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