わずか33試合で休養。理由は「痔瘻の悪化」
だが、岸一郎はとんでもない実績を持った野球人だった。1954年11月。就任会見を契機に、野球界の長老格からしだいに明らかにされる老人の正体。
日本プロ野球の創設に尽力した元巨人軍の市岡忠男は「早大時代は沢村栄治に匹敵する投手であり、満洲の野球が強くなったことにも岸君の力は大きく貢献している」と戦前の大選手であることを証言している。
岸一郎も就任の席で「自信がなければ大阪神の監督は受けない」とかつてのスーパースター然として言い切ると「タイガース再建論」を披露。
ダイナマイト打線に代表される強打のタイガースから、広い甲子園に見合った「投手を中心とした守りの野球」へのモデルチェンジを宣言すると「完投できる先発投手4人を作りたい」などと意気込んだ。
その一方で、「たとえ藤村富美男君でも当たらずと見ればベンチに置きますよ」とベテランたちの血の入れ替えを示唆。だが、いくら相手がかつての早大・満洲の英雄とはいえ、歴戦の猛虎たちがプロの世界の厳しさも知らない老人の言うことをすんなりと聞くはずもなかった。
キャンプから若手投手を積極的に指導した岸は、シーズンに入るとルーキーの西村一孔を開幕投手に指名するなど、若手の積極起用で一時は首位にまで躍り出る。
しかし、ベテラン陣との溝が埋まることはなく、采配に従わない、ベンチであからさまに暴言を吐かれるなど、岸は孤立していく。さらに、絶対に負けることが許されない宿敵巨人軍に対し9連敗を喫すると、5月21日、岸一郎は33試合で休養となる。
その理由が「痔瘻の悪化」というのは、果たして本当のことだったのかはわからない。
これ以降、岸一郎がタイガースの歴史に登場することはなかった。残された記録も少なく、幻の監督ともいわれてきた所以でもある。
「古い時代のわずかな期間にあった冗談のような本当の話」と一笑に付してやり過ぎてしまいそうになるが、タイガースの歴史を紐解いていけば、この岸老人の就任と退任が、球団の体質を決定づける大きなポイントになっていることがわかる。