中学の卒業文集では「高校生で漫画家になって、52歳で死ぬ」

――高校ではどんな勉強を?

高校は工業高校のデザイン系の学科だったので、課題の締切との戦いでした。そこで締切を守ることの大切を学んだかもしれません。

同級生が描いた漫画にまっすぐ目を見て「つまらないね」…それで完全に嫌われてしまって…漫画家・榎屋克優がトガりまくっていた20歳のころ_3

――どうしてデザインを学ぼうと思ったのでしょうか。

そもそも学校の勉強が苦手だったんですよ。左右を覚えるのも遅かったし、掛け算を覚えるのも遅かったし。あー勉強で評価されて成功するのは無理だなと。でも、描いた漫画はみんなに褒めてもらえるのでコレだなって。漫画家になることにベットすると小2のときに決めました。

――かなり早い決断ですね。デザイン学部ではどんなことを勉強するのでしょうか。

結構ハードでした。でっかい画板に、「あ」から「ん」までレタリングするとか。ゴシック体でひと通り終わると、次は明朝体、次はアルファベット、グラデーション、漢字…と続いていって。修行みたいなもんですね。もしかしたら、それが『日々ロック』に役立ってたかもしれないけど。

同級生が描いた漫画にまっすぐ目を見て「つまらないね」…それで完全に嫌われてしまって…漫画家・榎屋克優がトガりまくっていた20歳のころ_4
『日々ロック』の魅力でもある大きな描き文字で歌詞をみせる演出は、デザイン科での学びが生きている ©榎屋克優/集英社

――その後、京都精華大学のマンガ学部に進学されるんですよね。

そうです。中学校の卒業文集に「高校生で漫画家になって、その作品が映画化して、52歳で死ぬ」って書いてたんですよ。でも、高校生時代に手塚賞に応募したら、かすりもしませんでした。あ、これは才能がないなって思って。もうちょっと親の金でなんとかしなくては…と(笑)。延命装置みたいな感じです。

――死ぬ年齢まで決めていたんですか(笑)。

ジョン・レノンが40歳で死んだので、そこから12年くらいは生きたいなと思って(笑)。映画化は3本するとも書いてましたね。あと、僕原作の映画がカンヌでパルムドール賞を獲るとか。いやーそれにしても他人任せな夢です(笑)。