いわゆる「公開処刑」について

このダンスの例に典型的に見られるように、クラスみんなの前で運動をやらされ、それが失敗したときに感じる「恥ずかしさ」を表す言葉に、「公開処刑」というものがあります。この言葉、一度は聞いたことのある人が多いと思います。「体育ぎらい」に直結するこの言葉について、少し考えてみましょう。

たとえば、体育の授業では実技テストなどの名目で、一人ずつ順番に、クラスメイトの前で運動や技をやることがあります。先ほど挙げた跳び箱運動やマット運動などは、その典型かもしれません。そして、それらの運動や技が失敗したとき、私たちは、とてつもなく恥ずかしい感情を抱くことになるわけです。

体育でダンスという公開処刑…なぜ授業で踊らされ、辱めを受けなくてはいけないのか。トラウマになりかねない現代の「体育事情」_2

この「公開処刑」という表現が見事に表しているように、運動が苦手な人にとっては、クラスメイトの前で何かの技や演技をやらされることが、地獄のような苦しみであるということは容易に想像できます。さらに言うと、それは運動が苦手な人に限った話でもありません。

運動が得意な人であっても、クラスメイトの前で実践した際に失敗した場合、そのときの恥ずかしさを強烈に覚えていることがあります。前章でも少し触れたように、「運動は好き」なのに「体育が嫌い」という人は、そのような経験によって生み出されるのかもしれません。

また、「公開処刑」と呼ばれるからには、公開されていることだけでなく、むしろ処刑されるというニュアンスが強く含まれているはずです。そのような状況は、技や演技の失敗を見ていたクラスメイトからの嘲笑や失笑、もしくはそれを感じさせる視線によって発生していると言えます。なかには、爆笑するような輩もいるかもしれません。

もちろん、そのようなあからさまな「公開処刑」は、現在の体育の授業では少なくなっていると思い(願い?)ます。体育の授業をする先生も、日々、いろいろと工夫をしています。

ただし、それでもやはり、他者の前で技や演技を行うことには、どうしても「恥ずかしさ」が付きまとってしまいます。これは、避けようのない事実です。そうであるならば、私たちはこの「恥ずかしさ」を、一体どのように考えればよいのでしょうか。その手がかりとして、ここでは、恥ずかしさの正体を考えてみたいと思います。