ジョン・レノンが射殺される数時間前、1980年12月8日午前…

それは1980年12月8日午前のこと。
二人が住むダコタ・ハウスのベッドでの撮影。

脱ぐことに抵抗があったヨーコは、服を着たまま横たわる。すると裸になったジョンがキスをして抱きしめる。アニーのカメラがその一瞬をとらえる……。

その夜、アニーはジョンが死んだことを知った。この写真は『ローリング・ストーン』誌でジョンの追悼号の表紙として、何の見出しもつけずに印刷された。

たった1枚の写真の力に、世界中の人々が涙した。

アニーはその後、ドラッグのリハビリを乗り越えて『ローリング・ストーン』誌を去り、1983年に『ヴァニティ・フェア』誌に移籍。ロックのイメージから脱却する。

中でも1991年、映画スターのデミ・ムーアの妊婦姿ヌードは賛否両論を巻き起こし、発売禁止の事態や女性論争のきっかけを作った。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが暮らしたNYにあるダコタ・ハウス
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが暮らしたNYにあるダコタ・ハウス
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また、1998年にはファッション誌『ヴォーグ』に移籍。奇想天外かつ高額予算なセットやロケで、著名人やモデルたちと独特な写真世界を創造。

それでもアニーは、家族や子供たち、親しい人たちの写真を撮る時間を大切にしている。老いた父の最期を撮り、深い関係にあったスーザン・ソンタグの晩年も撮り続けた。

スーザンの勧めで1993年にサラエボに出向いた時は、死と向き合う人々の姿に胸を打たれた。帰国後に控えていた大スター、バーブラ・ストライサンドの撮影には何の意味も感じなかった。

文/中野充浩 写真/shutterstock

*参考/ドキュメンタリーDVD『アニー・リーボヴィッツ/レンズの向こうの人生』