バラエティで東大生の血を輸血
今で言う“愛すべきバカ”的存在だったのだろう。外波山さんもこう振り返る。
「当時、『笑っていいとも!』に出演(83年4月から84年3月までは水曜レギュラー、85年4月から死去した7月までは火曜レギュラー)してたけど、たこちゃんはよく行くのを忘れちゃうから、何度も(スタジオ)アルタまで送ってあげましたよ。
とにかく放って置けない存在というのは誰もが感じていたはずで、いろんな人がたこちゃんの人柄やキャラクターに魅了されてたんだよね」
官能小説界の奇才・団鬼六、ロマンポルノ界の巨匠・山本晋也、そして昭和映画界の大スター、高倉健も、たこに魅了されたひとりだった。
「たこちゃんは『網走番外地』シリーズに出演する師匠の由利さんの付き人として、東映の撮影所を出入りしてたんです。その作品の主演の高倉さんがたこちゃんのボクサー時代の試合を見てたらしく、『ぜひ僕の映画に出てください』と直々にオファーをかけたみたいで。
それがあの『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)。僕は同業者だから、普通は大役をゲットした彼に嫉妬しそうなものだけど、そんなことまったくなかったね。むしろ彼の魅力が世間の人に伝わるのをうれしいとさえ思っていました」
こうして“俳優”たこ八郎は世間に広く認知されるようになったが、さらに彼をスターへと押し上げたのがテレビだった。
「たこちゃんの笑いの魅力をお茶の間向けにとことん引き出したのはテリー伊藤さんじゃないかな。テリーさんが演出してた『日曜ビッグスペシャル』で、たこちゃんに東大生の血を輸血して知能指数が上がるかどうかを試したりしたね。まぁ、いろんなことがユルかった昭和の時代のお茶の間だからウケたんだろうけど(笑)。
あとは全身に金粉を塗ってマラソンさせて、皮膚呼吸できなくて倒れたたこちゃんが「人類みな兄弟!」って、すっとぼけたコメントでボケてみたり。そんな無茶苦茶なことさせられても、悲壮感や嫌悪感を感じさせなかったから人気者になったんでしょうね」