東映動画からの人材流出とフリーランス事情

手塚治虫はテレビアニメに乗り出すと決めてからも、虫プロのスタッフたちに、「どう思うか」と訊いていた。「いいですね」「やりたいですね」との答えを得ると、喜んだ。「やりたい」思いがあれば、「やれる」。この天才はそう考える。これまでもそうやってきた。月刊誌10誌に連載を持つという、誰もやったことのないことを平然とこなしてきた。もちろん、締切を守れないので編集者たちは苦労したが、原稿を落とすことはなかった。

虫プロは映画部とテレビ部に分けられ、映画部は山本暎一がチーフで『ある街角の物語』を、テレビ部は坂本雄作がチーフで『鉄腕アトム』を作ることになった。

4月には新設のスタジオが完成し、人員も増えていく。

テレビ部に配属された杉井ギサブローは、東映動画の同僚だった林重行を勧誘して虫プロに入れた。のちに林は「りんたろう」と名乗る。林重行は映画監督志望だったが、すでに映画会社の助監督試験は大卒でなければ受験もできなかった。

映像の仕事に関わりたく、テレビCFのアニメーション制作会社に入ったものの、その会社が倒産したのでTCJに入り、経験を積んだうえで1958年に東映動画に入った。大塚康生、楠部大吉郎らの1年あとになる。東映動画に入っても原画や動画の仕事には興味がなく、演出をしたかったのだが、演出部には大学を卒業していないと配属されない。やる気をなくしていたところ、杉井に誘われた。虫プロならば、大卒であるかどうかは関係なく、演出に就ける。

90分のアニメを200人が1年かけて作っていた時代に、30分のアニメを年間52本作ろうとした手塚治虫。「日本初のテレビアニメは鉄腕アトムではなかった」_4

さらにスタッフを増やさなければならない。坂本と杉井は古巣の東映動画の知人に声をかけまくった。前後して、東映動画で原画を描いていた石井元明、中村和子らも入ってくる。みな、1期生で『白蛇伝』から関わっているメンバーだ。

中村和子は満州で生まれ、12歳で敗戦となり、山口県に引き揚げた。画家を目指し、山口県立宇部高等学校から女子美術大学洋画科に進学した。アニメーションとの出会いは、フランスの長編アニメーション『やぶにらみの暴君』(ポール・グリモア監督、1952年)だった。

画家になれないときのために教員免許を取っていたが、1957年に東映動画の募集広告を見て応募し、採用された。1期生のひとりで、『白蛇伝』では第2原画となり、ヒロインの白娘と小青というキャラクターを描き、以後も女性キャラクターを担当することが多かった。中村は「和子」の名から「ワコ」と呼ばれていた。

中村も『安寿と厨子王丸』制作中に、会社への不満から辞めていた。その後は実験アニメーションを作っていた久里洋二らの「アニメーション三人の会」の仕事を手伝っていたが、坂本に誘われて、5月に虫プロに入った。

東映動画在職中に、中村は広告代理店の萬年社に勤務する穴見薫と結婚していたので、戸籍名は「穴見和子」となるが、クレジットなどにはその後も「中村和子」で出ているので、本書でも中村和子とする。中村は虫プロに入ると『ある街角の物語』の班に入った。

中村和子の夫、穴見薫は、もう少し戦争が続いていたら特攻隊員として死んでいたという経歴を持つ。21歳で敗戦を迎え、演劇青年だったので新劇の俳優座で制作の仕事をしていたこともあった。大阪の広告代理店萬年社に入り、東京支社企画部主任課長となっていた。

穴見は広告代理店の社員でありながら、アニメーションに藝術としての可能性を感じていた。そこで東映動画の白川大作と楠部大吉郎を食事に誘い、力を貸してくれと頼んだこともあった。

どういう体制で作ろうとしていたのかはよく分からないが、白川たちに東映動画を辞めて萬年社に入らないかというような話だったらしい。白川と楠部は辞める気はないからと断った。それなら誰か他にいないかと訊かれたので、辞めたばかりの中村和子を楠部が紹介した。穴見は中村にアニメーションを作らないかと持ちかけ、それがきっかけで結婚した。

東映動画には『安寿と厨子王丸』に不満を抱いて退社した者がそれなりにいた。さらに労働組合が強くなり、それについていけないと思う者もいた。テレビCFでのアニメーションは増え続け、小さなスタジオがいくつも生まれていた。フリーランスになっても仕事があった。