小三の冬に夫に受験を相談したら「そんなの必要ないだろ」

マユミが楽しそうにトロンボーンを吹くのはいいのだが、茜には気がかりもあった。まわりのお友達は中学受験塾に通い始めている。小三の二月から通い始めるのがいまの中学受験の常識だ。
ひとが羨む有名校でなくていいから、自分と同じように私立中高一貫校でのびのびとした六年間をすごしてほしい。そしてそこそこの大学に進んでほしい。茜はそう願っていた。
でも、小三の冬の時点で夫の鉄也に相談したら、「そんなの必要ないだろ」と取り合ってももらえなかった。
茜自身は東京で中学受験を経験した。いとこがJ学院に通っており、文化祭を見せてもらったことがきっかけだった。もともと勉強は好きだったので、もっと勉強がしたいからと親に頼み込んで大手中学受験塾に入れてもらった。
塾に入って、上には上がいることを知った。J学院を狙えるほどの学力が自分にはないことは、すぐにわかった。それでも、中学校は自分で選びたい。そう思って、勉強を続けた。
そんないきさつだったので、両親も中学受験に対する思い入れはほとんどない。塾代を出してくれるだけで、勉強を見ようともしなかった。ときどき、解説を読んでも理解できない問題を、年の離れた兄が噛み砕いて解説してくれたのがいい思い出だ。
偏差値的には中堅の女子校に進学することができた。志望校は母親が決めた。入ってみたらいい学校だった。中学受験の偏差値はそれほど高くはないが、同級生たちはみんなそれなりの大学に進学していった。
化学が得意だった茜は、私大の薬学部に進学した。六年間をまっとうしたが、学んでみた結果、自分のやりたい仕事はこれじゃないとわかったときはショックだった。結局大手不動産会社に就職した。子どもができてからは、非正規で、中堅の不動産会社に勤めている。

鉄也は新潟県出身で、もちろん中学受験なんて経験していない。大学にも通っておらず、地元の公立の工業高校が最終学歴だ。
ちょっと複雑な家庭で育ったらしい。幼いころに両親が離婚して、母親が女手ひとつで三人の男の子を育てた。鉄也は次男。そのほかの二人は中卒で、高校進学どころではないワルとして、地元では知られていた。
高校を卒業すると、就職するでもなく、親戚を頼って東京に出てきた。いくつかの職を転々としたのち、正社員として就職した不動産会社の事業所で茜と知り合い、その後、駐車場を管理・運営する会社に転職した。
そんなことだから、中学から私立に通わせるという発想が、鉄也にはまったく理解できない。公立の中学校があるのに、なぜ年間一〇〇万円近い学費を払わなければいけないのか。しかもそこに入るためになぜ車が一台買えるほどのお金を塾につぎこまなければいけないのか。
自分は高卒で東京に出てきて、ちゃんと稼いで、自立して、家族ももてている。中学から私立に通うなんて贅沢は必要ない。むしろ、そんなことをしていたら、ろくな大人に育たない。私立中高一貫校を出て、有名大学を卒業していても、言うほどに仕事はできず、人間的にも面白みに欠ける同僚を、これまで山ほど見てきた。
学歴なんかで、ひとの価値は決まらない――。それが鉄也の口癖だった。
中学受験なんてしない。そんなことにお金や時間をつぎ込むのはもったいない。小学生のうちは、好きなだけトロンボーンを吹けばいい。それで赤堀家の方針は決まりだった。