就業(会社)そのものは趣味を行ううえでのプロセスという価値観しか見出せない

そのような価値観のなかで、推し活やオタ活のように好きなことを消費すること自体が自身の精神的充足につながるのならば、生活におけるプライオリティは「趣味」に置かれ、「趣味の時間」と「趣味をするために仕方ないけど働かなくてはいけない時間」とに分断される。

就業(会社)そのものは趣味を行ううえでのプロセスという価値観しか見出すことができないため、会社に対してモチベーションややりがい、目的を持つことなどますます困難になる。

長い時間拘束されず、お金がもらえればそれだけで十分。それなのに、給与も発生せずに会社の人たちと終業後の飲み会で顔を合わせていなくてはならない。

上司陣からしたら家に帰ってもやることはないし、自分の話を聞かせることができる最高の場なのかもしれないが、若者からしたら苦痛以外の何物でもない。

このように、現実社会における共通意識(身を置くコミュニティ)に対するプライオリティが低いと、そこでの人間関係の親密度を深めることは難しく、人間関係が淡泊に見えてしまうわけだ。

今すぐ「何者か」になりたいZ世代がヲタ活にはまるワケ…自分がオタクであると発信することはアイデンティティを発信することと同義なのか_4

一方で、SNSにおける趣味を媒介としたコミュニティや共通意識は自身のプライオリティの高いものであり、つながり自体も強度も、自分の嗜好に合わせて、身を置くコミュニティや、個々でつながりたい仲間を選択できるのである(SNSの趣味アカウントを作るのも、ハッシュタグで同じ趣味を持つ消費者を探すのも、他の消費者にリプライやDMをすることも、どれも自発的に行われていることだ)。

そのため、趣味のコミュニティに高いプライオリティを置く者にとっては、SNSでの人間関係そのものが「好きなモノを消費していいんだ」「好きなモノを認めてくれる人がここにはいる」といったように、自己肯定感を高めてくれる場所となるのである。

そのような側面から見ても、SNSの存在はオタクというアイデンティティを形成、維持するために重要な場といえるだろう。

あわせて、SNSはさまざまな多様性が可視化され、人々の権利や訴えが主張される場、そしてそれが認められる場として成立している。

大衆に埋もれることなく、個の価値観が大事にされるようになったことで、今まで以上に自分自身の価値観が何なのか、他人を見たときに自分は何者なのかと意識させられることも増えたような気がする。

むしろ、他人の動向がSNSによって視覚化されてしまったことで、より自分のアイデンティティを意識するようになったともいえるかもしれない(「夢が実現した」という他人の投稿、趣味を全力で楽しむ他人の投稿などを見たときに、自分の現状と比較してなんともいえない気持ちになったことはないだろうか)。

そのような背景からも、自分の趣味=アイデンティティを表層化させ、自分が何者であるかを他人に示したい、そのアイデンティティをフックに人間関係を構築したいという心理が生まれていると筆者は考える。

ここまでをざっくり整理すると、オタクになることがアイデンティティにつながるのでオタクになりたい若者もおり、それ自体が若者がオタクを自称する理由になっているということだ。