要介護者だけでなく、介護知識を持たない介護者(家族)もまた、社会的弱者

ここで、少し唐突に感じられるかもしれませんが、知識の重要性について確認しておきたいです。そのためのたとえ話をします。

ある夜のこと。あなたは、仕事から自宅に帰る途中でした。路地裏に差し掛かったところ、5人の屈強な大男が、1人の弱々しい老人に対して殴る蹴るの暴行をしているのを目撃しました。周囲には、自分以外に人はいません。

あなたなら、どうしますか?

すぐにこの場に割って入って、5人の屈強な大男を止めようとするのは(プロの格闘家でもなければ)無謀でしょう。とはいえ、見て見ぬ振りもできません。おそらくは、警察に通報しつつ、周囲から人を呼び集めたり、大男たちの写真を撮って、後の犯人逮捕の証拠としたりするでしょう。

では、このとき、あなたの手には(なぜか合法的に)マシンガンが握られていたとします(しかもその使用許可まである)。まず、警察に連絡するのは同じかもしれません。しかし、おそらくあなたは、5人の大男に対して、マシンガンを向けながら「やめろ!」と叫ぶのではないでしょうか。

マシンガンを持っていると、今度はむしろ、こうした事件が起こりそうな現場をパトロールし、探して歩くようにもなるかもしれません。マシンガンがなければ、できれば遭遇したくない事件だったのに、マシンガンを持った途端に、むしろ事件を探すようになるのですから、面白いものです。

「介護知識を持たない介護者(家族)もまた社会的弱者」家族の負担を減らす視点に欠ける日本の介護保険制度の設計エラー_2

このたとえ話で伝えたいのは、人間の行動は、持っている力(武器)によって簡単に変化するという事実です。このたとえ話における力とは、暴力的なマシンガン(及びその使用許可)でした。しかし、現代社会において、より広範囲に使える力と言えるのは「知は力なり(knowledge is power)」と言うとおり、知識です。

介護がいかに大変なものであるか、それについては多くの人が直感でも理解していることでしょう。

しかし、客観的にみた要介護者の状態が似たようなものであっても、あなたの主観的な負担感は、あなたの知識の量(武器)によって大きく異なるのです。屈強な5人の大男と戦う必要があるとしても、マシンガンのあるなしによって、その負担感はまったく異なることと同じです。

実際に知識がない場合、介護は、要介護者に振り回されるばかりの面倒になります。これは受け身であり、バタバタしているだけで時間が過ぎていきます。自分なりに一生懸命やっていても、無力感に襲われることもしばしばでしょう。武器を持たないで屈強な5人の大男に立ち向かっているのですから、当然の結果です。

しかし、その場に、心身の障害との戦い方についての正しい知識で武装した介護のプロ(ベテランの傭兵)がいてくれたら、どうなるでしょう。

要介護者に振り回されるという状況に対して、積極的に対応できるようにもなるはずです。それこそ、自分の親の介護だけでなく、介護に悩んでいる同僚の介護についてもアドバイスをするようになると思います。

介護というテーマにおいては、要介護者だけでなく、介護知識を持たない介護者(家族)もまた、社会的弱者なのです。その救済に必要なのは、介護の知識であり、ここまで述べてきたとおり、本質的にはその勉強です。

あなたが本書を読んでいる理由も、こうした直感があるからでしょう。

しかし現実には、仕事に追われながら、自分で介護の勉強をするだけの時間を確保できるケースなど、ほとんどないはずです。だからこそ、強力な武器で武装した介護のプロが存在しているのです。