名前の由来は、日本海軍の戦艦「土佐」

長崎県の端島が「軍艦島」と呼ばれるようになったのは、大正期。

元々は大きな岩礁と周囲に点在する瀬から成る小さな島だったが、明治から昭和にかけて7回の埋め立て工事で南北約480m、東西約160mに拡張された。

その姿が日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして、大正期に新聞が「軍艦島」と報じ、以来島外の人からその通称で呼ばれるようになったらしい。

1890(明治23)年に三菱が買収、本格的な石炭採掘が始まり、島は著しい発展をとげていく。

1974年の閉山まで行われ、日本一の品質を誇ったといわれる石炭の採掘作業は海面下1000m以上の地点にまで及んだ。坑内は勾配がきつく、気温30℃湿度95%という悪条件と、可燃性ガスの噴出など常に危険と隣り合わせの過酷な環境だった。

職業体験・社会見学の一環としてボートレース場に行く小中学校、「五輪種目」になるケイリン…公営競技はほんとうに迷惑施設なのか_2
軍艦島の石炭は日本一の品質を誇った

1960年代には人口約5300人に。
東京23区の17.5倍以上、世界一の人口密度だった

周囲約1200mというこの小さな島で採炭を進めるため、大正5(1916)年に日本初の鉄筋コンクリート高層アパート30号棟が建造されて以来、昭和30年代にかけ、坑員と家族のための住宅や学校が建て続けられた。

1960年代には人口約5300人、当時の東京都区部の17.5倍以上、世界一の人口密度に達した。

57号棟の間から端島神社へ通じる長くて複雑な階段は、途中で息切れすることから「地獄段」と呼ばれ、端島中学校のマラソンコースにもなっていた
57号棟の間から端島神社へ通じる長くて複雑な階段は、途中で息切れすることから「地獄段」と呼ばれ、端島中学校のマラソンコースにもなっていた

人口が激増したのは終戦後で、小さな島の暮らしは賑わいを見せてゆく。住宅はもちろん、学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていた。

大人たちは今日と同様、飲酒、パチンコ、麻雀、ビリヤード、囲碁、将棋、釣り、ショッピングなどを楽しんだ。また、毎年祭りや運動会、文化祭が開かれ、島の住民は一つの家族のようだったという。

買い物にも便利で、生活必需品に困ることはなかった。「端島銀座」には青空市場が開き、仮設店舗が並び、行き交う多くの人で賑わった。

青空市場も立つ、島いちばんの目抜き通り「端島銀座」
青空市場も立つ、島いちばんの目抜き通り「端島銀座」

1958年当時、坑員の給料は高く、各家庭のテレビ所有率はほぼ100%で、それは日本一(全国のテレビ普及率の平均は10%)だった。