「がんの消滅」

では光免疫療法のメリットとはなんだろうか。

まずオバマの言葉を借りれば、光免疫療法は「がん細胞だけを殺す」ことだ。従来の三大療法はどうしても正常細胞を傷つけてしまう。

どんな天才外科医でもがん細胞だけを摘出するのは不可能だ。どれだけピンポイントに放射線を当てようと、がん細胞の周囲の正常細胞も傷ついてしまう。抗がん剤治療は、ざっくり言えば「毒」をもってがんを制する治療法だ。がんだけでなく正常細胞にも「毒」の影響が出てしまう。

がん免疫療法はがん細胞を直接殺すわけではない。がん細胞を殺す免疫細胞を活性化するものだ。

光免疫療法は、近赤外線照射のスイッチを押せば、がん細胞だけが狙われ、選択的に壊される。

次に、これは「がん細胞だけを殺す」ことと同義とも言えるが、「体への負担が少ない」点がメリットだ。つまり、何度でも治療することができる。

医学的には「低侵襲」という言い方をするが、人体には安全な薬剤を体内に注入し、安全な光を照射し、がん細胞が選択的に殺せるなら、体への負担はないはずだ。しかも、治療後には正常細胞が残る。がんがあった場所は元のきれいな状態に戻るに違いない。

それに対して、外科手術を行って切除した臓器や組織が戻ってくることはないし、切開したところは傷痕として残るかもしれない。放射線治療は当てられる線量が決まっており、放射線を浴びた通常の組織は元に戻らないことがある。抗がん剤治療の場合、がん細胞に耐性ができる場合があり、これも投与できる上限が決まっている。

人間とがんとの戦いに終止符をうてるか…「がん細胞だけを狙って殺す」希望の光免疫療法とは? そのメリットとは?_4
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最後に、「汎用性の高さ」だ。

本章の冒頭で、「がん細胞の表面には他の正常細胞にはないタンパク質が多数、分布している。がん細胞を移植されたマウスの体組織内に、このタンパク質とだけ(特異的に)結合する物質を送り込んでやれば、がん細胞にだけその物質がくっつくことになる」と述べた。

この〈物質〉は免疫学では「抗体」と呼ばれる。後に触れるが、光免疫療法は抗体医薬の原理でがんだけを攻撃する。

この抗体が特異的に結合するタンパク質(免疫学では「抗原」)は、一般には「腫瘍マーカー」として知られている。がんの種類によって作られるタンパク質が異なるため、がんの診断の際に利用されている。

EGFRというタンパク質は、多くのがんに発現する。頭頸部がん、皮膚がん、卵巣がん、乳がん、肺がん、胃がん、すい臓がん、胆管がん、大腸がん、子宮がん、膀胱がんなどだ。
HER2(ハーツー)というタンパク質は、乳がんや胃がん、すい臓がん、胆管がん、膀胱がんなどで発現が見られる。

こうしたタンパク質(抗原)はすべてのがん患者で同様に発現するわけではないのが難しいところだが、この抗原に合わせて抗体を変えてやれば、がんの種類ごとに抗体がIR700をがん細胞のもとに運んでくれ、がんを殺すことができる。原理的には、9割のがんをカバーできるのだ。

つまり光免疫療法は「がん細胞だけを狙って殺す」「何度でも治療できる」「9割のがんをカバーする」ということになる。

光免疫療法が広く実用化されたら、そんな未来が待っているのだ。

がん検診でがんと診断されたとする。自分のがんが光免疫療法のカバーする9割のがんだということがわかり、光免疫療法での治療を選択したとする。

私たちはまず病院に行き、IR700を含む薬剤を点滴される。薬が患部に充分に行き渡る時間が必要だが、その間はただ待っていればいい。その上で医師の元に行き、患部に近赤外線を照射してもらう。強い光で細胞を焼くわけではないのに、がん細胞は照射の瞬間から壊れ始める。3センチ程度のがんであれば4~5分の照射で施術は終わるだろう。その後は体内に残った薬剤と壊れたがん細胞の排出を待つだけだ。

さらに普及が進めば、私たちはがん検診すら必要なくなるかもしれない。定期的に病院に行って薬剤を飲み、近赤外線の照射を受けておけば微小なうちにがんを退治できる。

そんな未来が来たならば、それは私たちががんという病から解放されることを意味しないだろうか。

かつて結核は「死の病」だった。

だが医学の進歩はその恐怖の記憶を遥かな過去に追いやった。

がんはどうだろう。

光免疫療法は実際にがん細胞を殺し、消滅させるだけでなく、私たちの「がんの記憶」さえ消すかもしれないのだ。それは「がんの消滅」と言ってもいいのではないか。

文/芹澤健介 写真/shutterstock

#1『がん細胞がぷちぷち壊れていく…人類の希望「光免疫療法」発見の瞬間「がんを光らせる実験のはずがまさかの結末に」』はこちらから

#3『人類の希望…9割のがんに効果があるという「光免疫療法」の真価とは。「物理的にがん細胞を壊す」「再発しても免疫細胞がいち早く反応」』はこちらから

『がんの消滅:天才医師が挑む光免疫療法』 (新潮新書) 
芹澤 健介 (著)、小林 久隆 (監修)
人間とがんとの戦いに終止符をうてるか…「がん細胞だけを狙って殺す」希望の光免疫療法とは? そのメリットとは?_5
2023/8/18
¥924
256ページ
ISBN:978-4106110061
なぜ「天才」なのか
どこが「ノーベル賞級」なのか


原理はシンプル――だがその画期的機構から「第5のがん治療法」と言われ、世界に先駆け日本で初承認された「光免疫療法」。がん細胞だけを狙い撃ちし、理論上、「9割のがんに効く」とされる。数々の研究者たちが「エレガント」と賞賛し、楽天創業者・三木谷浩史を「おもしろくねえほど簡単だな」と唸らせた「ノーベル賞級」発見はなぜ、どのように生まれたのか。「情熱大陸」も「ガイアの夜明け」も取り上げた天才医師に5年間密着、数十時間のインタビューから浮かび上がる挫折と苦闘、医学と人間のドラマ。

「はじめに」より
がんをもはや「怖くない」と言う人もいる。国立がん研究センターによれば、日本人の2人に1人ががんになる。東京都をはじめ、各自治体は「早期発見すれば、90%以上が治ります」とがん検診を勧める。「全身にがんが広がっていなければ、約50%の人が治りますと言う医師もいる。(中略)だがそれでも、日本人の死因1位は1981年から変わらずがん(悪性新生物)だ。2021年の厚生労働省の統計によると、がんの26・5%は2位の「高血圧性を除く心疾患」の14・9%を大きく引き離す。年間170万人ががんになり、そのうち70万人が治療法がないなどの理由で「がん難民」になると言われる。結局のところ、日本人は2人に1人ががんになり、4人に1人はがんで死ぬ。この数字が示すのはむしろ、身内や親しい友人をがんで失ったことがない人など、どのくらいいるのだろうということだ。「9割のがんに効く」治療法があれば、どのくらいの人たちと私たちはまだ一緒に過ごせていただろうかということだ。光免疫療法はまだ途上である。現状は、限られた病院で、限られた患者の、限られたがんに施されるに過ぎない。「夢の治療法」が現実化するためには、越えなければならない壁がいくつもある。本書では足かけ6年にわたる小林久隆医師への直接取材を基に、光免疫療法のメカニズムとその現在、過去、未来を描くとともに、私たちが直面する「壁」とは何なのか、この治療法が生まれた背景に何があったのかを報告したい。

「目次」より
はじめに

第一章 光免疫療法の誕生
実験現場の奇妙な現象/光免疫療法の「発見」/光免疫療法の原理/標準治療/三大療法/「がんの消滅」/NIH──米国国立衛生研究所/39歳でのリスタート/〈ナノ・ダイナマイト〉/爆薬IR700/起爆スイッチ/スイッチのオン・オフ/〈魔法の弾丸〉/分子標的薬/ミサイル療法/9割のがんをカバーする/光免疫療法の真価/免疫はがんを殺せるか/制御性T細胞/〈免疫システムの守護者〉/「全身のがんが消えた」/偶然か戦略か/イメージングがもたらしたもの/“見る”ことと“治す”こと/光免疫療法への道/完璧な理論武装

第二章 開発の壁
資金の壁/誰と組むか/西へ東へ/三木谷浩史と父のがん/「おもしろくねえほど簡単だな」/1週間で3度の会合/RM -1929/治験の壁/施術条件の壁/ある同僚の死/効きすぎてしまった?/奏効率の壁/政治の壁/「ひとりの天才がいるだけではダメ」/辿り着いた国内承認/現場の医師より/光免疫療法ではない治療/「人生最後の山」

第三章 小林久隆という人
ノーベル賞はありうるか/「同世代のヒーロー」/医師で化学者で免疫学者/「まっすぐではなかった」道/謳歌した大学院時代/渡米ショック/学位論文/苦い教訓/どん底の研究生活/“医者”か研究者か/まともなことをしてるんやろか/年1500件の内視鏡検査/「がんこ」で「しつこい」/少年時代/灘の“化学の鬼”/京都大学へ/何かを見つけるための6年間/震災の記憶/日本のキャパシティ/骨ぐらいは拾ってやる/「無駄な実験なんてひとつもない」

終章 がんとはなにか
がんは難しい/セントラル・ドグマ/自己の分身/光免疫療法の未来

おわりに 
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