いつの間にか治っていた対人恐怖

彼女が座る席の近くには、母親が女の子を抱きながら一緒に眠っていた。眠っているはずの母親なのに、柔和な表情で、すやすやと寝息を立てている女の子を見つめているかのようだった。

「あんなにやさしそうな眼差しで母が私のことを見てくれたことなんて、ないように思いました。私は、母に理解してもらおうと、がんばっていました。だけど、それは無理でした。そんな自分を理解したから、いままでのことは、もうどうでもいいです。叶いもしない願いのために、私は一生懸命だったんです」

彼女は、その小旅行の一部を私に聞かせてくれ、そしてこう付けくわえた。

「よく、がんばってきたんだと思います、私は……」

母親をたしかめに行った日から、また数週間が経った。

「もう少し、自分を褒めてあげようと思います。私は、あの家のなかでよくやってきたと思います。あの母のもとに生まれた自分がかわいそうに思えました。いまは、私が子どものころの私の母親になって、抱きしめて、頭を撫でてやりたいと思います。えらかったねと、言ってあげたいです。よく、ひとりでやってきたんだよと、言ってあげたいです」

――そう言って、彼女は静かに泣いた。

そういえば、彼女の最初の主訴であった対人恐怖は、いつの間にか治っていた。電車に乗ることができそうだという。もうしばらくしたら、就労移行支援事業所に通おうと思っていると報告してくれた。

「なぜ自分は母親から虐待を受け続けたのか?」“虐待サバイバー”の40代女性が心の傷を回復するのに必要だった理解_4
すべての画像を見る

「この前、久しぶりに家の近くの駅前を歩きました。いままでは、みんなが私の悪口を言っていると思ったんです。だけど、よく耳をすませると、私のことなんか話していないんですよ。当たりまえですよね。みんな、『今日のご飯どうしよう』とか『仕事を休みたい』とか、そんな話題でした。

いままで、自分が悪いという固定観念しかなかったですけど、それがなくなりました。私は、悪いことなんてひとつもしていませんでした。だからもう少し、胸を張って生きようと思います」

#1 自殺を企てた本人にその記憶がまったくない…「物忘れ」では説明のつかない解離性障害はなぜ引き起こされるのか?
#2「気づいたら高層マンションの最上階の外階段に立っていて…」無自覚のうちに自傷する人たちに共通する“幼少期のある経験”
#3 うつ病と診断されたものの、抗うつ薬がほとんど効かず、心理療法も効果なし…48歳男性の治らないうつ病に「隠された事情」とは?
#4 「強い義務感」と「情緒的消耗感」が徐々に体を蝕み…“虐待サバイバー”が燃え尽き症候群を発症しやすい理由

『ルポ虐待サバイバー』
植原 亮太
「なぜ自分は母親から虐待を受け続けたのか?」“虐待サバイバー”の40代女性が心の傷を回復するのに必要だった理解_5
2022年11月17日発売
1,045円(税込)
新書判/256ページ
ISBN:978-4-08-721240-2

田中優子氏・茂木健一郎氏推薦!
第18回開高健ノンフィクション賞で議論を呼んだ、最終候補作

生活保護支援の現場で働いていた著者は、なぜか従来の福祉支援や治療が効果を発揮しにくい人たちが存在することに気づく。
重い精神疾患、社会的孤立、治らないうつ病…。
彼ら・彼女らに接し続けた結果、明らかになったのは根底にある幼児期の虐待経験だった。
虐待によって受けた”心の傷”が、その後も被害者たちの人生を呪い続けていたのだ。
「虐待サバイバー」たちの生きづらさの背景には何があるのか。
彼ら・彼女らにとって、真の回復とは何か。
そして、我々の社会が見落としているものの正体とは?
第18回開高健ノンフィクション賞の最終選考会で議論を呼んだ衝撃のルポルタージュ、待望の新書化!
amazon 楽天ブックス honto セブンネット TSUTAYA 紀伊国屋書店 ヨドバシ・ドット・コム Honya Club HMV&BOOKS e-hon