「〈いい子〉の向こう側へ」高瀬隼子×ひらりさ『いい子のあくび』刊行記念対談_3

〈正しさ〉と〈まっとうさ〉

高瀬 ひらりささんが今年出されたエッセイ『それでも女をやっていく』、ほんとうに面白く拝読しました。「女であること」をめぐって生じる葛藤や悩みに、ご自身の実体験を通して真正面から向き合おうとする一冊です。
 たくさん付箋を貼ってきたのですが、正しさやまっとうさについて書かれた一文が特に印象的でした。「自分が女であるのを疑っていない以上、まっとうな女であることを目指す必要がある」という部分。分かるー! と思いながら読みました。ひらりささんが書かれた「『みんな』や『あの子』と同じでいたかったから」という理由とは少し違うかもしれないのですが、まっとうな女をやってしまっている自分、目指してしまっている自分、目指すと決意したわけではないのにそれを選ばされている自分、という被害者意識が自分の内にあるというか……。三十五歳になるのに幼いなとも思うのですが、それでもやはり、「まっとうな女」を選ばされていることに対する怒りがあります。
ひらりさ 読んでいただいてありがとうございます。
 高瀬さんと正しさやまっとうさについて話すなら、私たちの都会育ち/地方育ちの差は無視できないと思っています。私は東京育ちの私立女子校出身なのですが、十代前半から「正解が正義」という思想を植え付けられてきた自覚があるんです。正解すると褒められるし、成績によって評価されることで「自分は間違っていないんだ」と安心できる。裏を返すと、他人の物差しがないと自分が分からない人間に育ってしまったなあと。
 一方で高瀬さんの『水たまりで息をする』や、今回収録されている短編「末永い幸せ」には、地方の小さな人間関係の中で暮らしたことのある人物が出てきますよね。彼女たちは息苦しさを感じているけれど、でも実は、東京に来たからといってその苦しさから抜けられるわけではない。東京には東京の小さいコミュニティがあるし、ご近所や会社のみならず、友達や夫婦というのも一つ一つコミュニティですよね。高瀬さんは、それぞれの場の〈正しさ〉〈まっとうさ〉を纏い適応しようともがいている人の物語を書かれているんだなと、今回拝読していて強く思いました。
高瀬 伺っていてなるほどと思いました(笑)。
ひらりさ 人間がその場に応じて振る舞いを切り替える様が、『いい子のあくび』では顕著に描かれているように思います。主人公の直子がまさにそうで、友人の圭さんに「圭さんの結婚式、素敵だった」と言ったそのすぐ後で、別の友人・望海に向かって「結婚式ってする意味分かんない」と発している場面があったり。SNSや様々なチャンネルを通じて、自然に皆が「私」を切り替えているこの社会の在り方に、高瀬さんはすごく敏感だなあと思いました。
高瀬 そうなんですよね。主人公の直子は全方面に対していい顔をするというか、いい子をしてしまう。でもそのいい子は清廉潔白なわけではなく、あくまで目の前にいるその人にとってのいい子でしかない。違う方向を向いたらまた別のいい子をする、切り替えをしまくる人間だと思います。
ひらりさ 先ほどお話しされていた「まっとうな女」を選ばされることへの怒りにも通じるかもしれないのですが、高瀬さんご自身も普段はいい子ですか?
高瀬 私自身もいい子ですね(笑)。特に職場ではとてもいい子。一年前に作家業がばれてからは化けの皮が剥がれつつあるのですが……。それまでは、まっとうに仕事を頑張っている、残業も文句言わないでやる、いつもにこにこしている、飲み会で下ネタを言っても嫌がらない、おじさんの隣に座らせても大丈夫、そんな〈いい子〉をやっていたと思います。
 でも最近は、意識的にいい子をやらないようにしています。かつて自分がいい子をやってしまっていた分、下の世代に負債を残してしまったなという後悔と罪悪感があるので。ただ、後悔と罪悪感を持つと同時に、当時の自分はいい子をやらざるを得ない状態にあったとも思うので、どうしたらよかったんだろうなとも……。
ひらりさ まずは個人として生き延びるのが第一ですよね。私は正論と正解は別だと思っています。その場で怒ったほうが全体にとって良く作用する場面があるのは確かですが、それはあくまで正論。正論ではなく、その時々にその人が選びとれる正解を選んでしまうのは仕方がないことだと思います。自分自身もそうしてきましたし。ただそうして正解を選びとった後、少しでも自分の地位なり生存なりが安定した段階で、視野を広くして正論に目をやるのは大事だと思いますね。高瀬さんの場合、その場で上司を殴るより小説を書いたほうが結果的に大きい効果があるでしょうし(笑)。
高瀬 そうかな、そうだといいんですけど。
ひらりさ もちろん、その場で上司を殴る人もめちゃくちゃえらいんですけどね。
高瀬 かっこいいと思う! 自分はできなかったから、よりかっこいいと思います。

社会に要請される〈女〉

高瀬 ひらりささんが書かれた「わたしが『女』になる上で大きな役割を果たしたのは、もっとぼんやりとした細かな出来事に、相槌を打ち続けさせられる日常そのものだったと思う」という部分、ここもほんとうに印象深かったです。少しも共感できないことに対して「そうですよね」と相槌を打ち続けさせられる経験って、きっと男性より女性のほうが多いと思うんです。今日も会社でやってきたし、明日もするんだろうなと。
 あと、私はもうすぐ三十五歳になるのですが、「三十代半ばの女性が求められていること」「二十代半ばの女性が求められていること」というふうに、世代に応じた女性の理想像があるように感じてきました。小学生女児だったときは「天真爛漫でパティシエを目指している」みたいな女の子像が求められていた。
ひらりさ わかります、パン屋さんとかケーキ屋さんですよね。
高瀬 お花屋さんを目指すことを社会から要請されている、と受け取っていました。その後も女子中学生、女子高校生、女子大学生でそれぞれ違う項目を求められ続けていたと思うんです。そして多分この先も、四十代、五十代、六十代とその歳の女性として求められる項目が変化していく。
 果たして男性は社会から、こんなふうに年代別の理想像を課されているのだろうか? と思いました。もちろん男性には男性の大変さがあります。それでも、求められる項目が三歳刻みでどんどん更新されていく女性のような状況には置かれてはいないのでは、と。社会に要請される〈まっとうさ〉の項目を前にずっと相槌を打ち続けることで、自分は社会的な女になっていったんだと思います。
ひらりさ 少しずれた例えかもしれないのですが、女性誌を見ていても年齢によってかなり細分化されていますよね。『いい子のあくび』の中でも、「自分の未来はほとんど想像できる。この後、圭さんに子どもができて疎遠になる」「望海の転勤が決まる。(…)結局、望海もいなくなるのだ」というふうに、直子は自分の人生を俯瞰して眺めていますよね。結婚や出産をはじめ、規範やイベントに沿って自分の人間関係が規定されているという感覚を、男性は、女性ほどには感じずに済んでいるのではないでしょうか。
高瀬 変わらない自分のままでいられるって強いし、羨ましいしずるいなと思ってしまいます。
ひらりさ あと、ジェンダーという区分けで考えると、女性のほうが言いたいことを言えない場面が多いように思います。歴史的には長いこと「公的な発言」ができる主体として認められていませんでしたし、現在も、女はそういうことを言うべきではないという押し付けがあったり、相手を怒らせると加害をされる恐れがあったり。自分の発言に対して敏感にならざるを得ないというのはありますよね。
高瀬 そうですよね。私はいつも「女性の苦しみやむかつきを書いているね」と言われるし、自分でもそう思っているのですが、実は書き始めるときは「よし、女性のむかつきを書くぞ」とは思ってはいないんです。むかつきや嫌なことは男性も当たり前に抱えているし、大変じゃない人なんていない。それでも物語に女性を出すと、そこに勝手に苦しさ・つらさ・しんどさがついてくるんですよね。
 例えば『いい子のあくび』には主人公の直子の恋人・大地が出てきます。大地は教師という大変な仕事をしているのですが、彼が生活している姿を書いても、日常における不条理な苦労はパッとは出てこない。電車に乗っただけで女性は嫌な目に遭うけれど、大地さんはその苦労がない日もあるんじゃないかなと。その違いはあるように思います。
 ただ、今の自分の人生としては、小説のネタになるので女でよかったと思いますね。自分が男性に生まれていたら書けないことのほうが多かったと思います。あと、自分の中にうっすら存在している加害性、人に危害を加えたいという感情が身体的に強い男性になった時に外に出てしまったら、即ニュース速報になってしまいそうなので(笑)。そこへの恐怖もある気がします。

犬と人間と言葉のずれ

ひらりさ 以前、友人と高瀬作品の話をしたときに「高瀬さんは動物以外好きじゃないと思う」という指摘があって、深く納得したことがありました(笑)。高瀬さん、人間は好きですか。
高瀬 ひらりささんの『それでも女をやっていく』の中で、「世界中の男がうっすら嫌いだ」という一文があります。自分は「女」に興味があって「女」であることが好き、だからそれでも女をやっていく、という流れの中での一文です。でも私は、「世界中の男がうっすら嫌いだ」という部分を読んで「たしかに」とうなずいた後、「いや、女もうっすら嫌いだな」と思ってしまいました(笑)。世界中の人間がうっすら嫌いなんですね。動物は好きです。犬>人間の図式はどうしたって覆りません。
ひらりさ 犬と人間の違いってどこにあるんでしょうか(笑)。
高瀬 愛おしいか、愛おしくないか。問答無用で愛せるかどうかですね。
ひらりさ 伺っていてふと、言葉で干渉しあえる前提があるかどうかがポイントなのかなとも思いました。先ほども女性の理想像についての話がありましたが、ジェンダー的な要請もある種、言葉によって刷り込まれるものですよね。『いい子のあくび』に限らずですが、高瀬さんの小説には、一〇〇%心から思ってはいないけれど、自ら言葉に出して言うことによって、言ったことそのものを信じようとするシーンが多いように思います。言っていることの七割ぐらいはたしかにそう思っているけど、心の底から十割で思っているわけではない。その発言と心のずれに、登場人物たちも高瀬さんご自身も敏感だなと。自ら発した言葉を信じることで人間をやっている感じがあります。
高瀬 人間をやっている感じ。
ひらりさ その場での正解を口にして、十割はそう思っていない自分を感じつつも、口にすることで八割まで自分を追いつかせている感覚を書いているというか……。
高瀬 自分はそういうことを書いているんだなと、言われてはじめて分かりますね。『いい子のあくび』の三篇の主人公たちに対しては、書き終えて時間が経った今読み返してみると、みんなちゃんと思っていることを言えばいいのにという気持ちはあります。でも同時に、自分自身も思うことを十割で言うことができないから、彼女たちのような人物を書いているんだと思います。
ひらりさ 高瀬さんは、発される言葉と思っていることがずれ続けることの気持ち悪さをずっと意識されているように感じます。だから、言葉を介さない犬のほうが信用できると思っているんじゃないかな(笑)。