「作品性か作家性か」
永遠につきまとう問題とどう付き合うか

ニシダ 受け入れられるかとはまた別の部分で、自分で「面白い」とは思えるんですね。

又吉 そうですね。たとえば中学校のときとか、クラスの中でどっちかといったら暗かったし気持ち悪がられたりしてたけど、人気者の男子と自分を比べて「俺はダメなやつなんだ」と思ってはなかったんですよ。そのときくらいに、誰がなんて言おうが自分のこのスタイルや考え方は誰かによって規定されるものではないという意識が芽生えたんじゃないかな。そういうふうに世間の評価軸とはまた違うところに軸が一個あるかもしれない。

ニシダ めちゃくちゃうらやましいというか、ものを作る上ではそれが健全なんだろうなと思いました。ネタも書いてないので、自分が考えたことを創作物として発表すること自体が初めてだったんです。だから小説を出すとき、めちゃくちゃ怖くて「面白いのかな」って不安になってしまって。でもその感覚はなくなったほうが絶対いいんだろうなと思ってます。

又吉 それが完全になくなるのは難しいかもしれないですね。僕も怖いのは怖いし、みんなに「全然おもんないです、嫌いです」って言われる可能性はあるよな、ってどっかで思ってて。せっかく作ったものは人にちゃんと読んで喜んでもらいたいって気持ちも、やっぱりどこかにはあるから。でもそうなったときに発動する自分の軸みたいなものと、両方ある感じでしょうね。

又吉直樹「火花を書いた時はエゴサをしました」…タレントが小説を書くということ。永遠につきまとう「作品性」か「作家性」かの問題_3

――又吉さんやニシダさんの作品は、顔や名前を知った状態で読んでいる人が多いと思います。「文芸誌の新人賞を獲ってデビューしました」というかたとは事前の情報量がまったく違うわけですよね。そこはどう折り合いをつけてますか?

ニシダ 又吉さんは、そこはもう乗り越えたところですか?

又吉 うーん、どうなんですかね。今までも何度かそういうことを指摘されたこともあるけど、いいようにとらえてるかもしれないです。

作品性か作家性かみたいな話って永遠につきまとう問題ではあるけど、そこを無にはできないというか。俳句なら、十七音の作品があってその下に「芭蕉」って入って初めてその一句が作品化するという考えがある。

無記名で出してどの句がいちばんよかったか選ぶのが健全なんじゃないかという考えもあるけど、でもそこに名前があるのはその人の人生が乗っかってたり、その人が責任を持って自分の判子を押しているというところも含んだ作品やと思う。知られていようが知られていまいが、書いていったら作家性ってものは絶対誰かに語られ始めるんですよね。

出版社の大社長の息子として生まれてきて、生まれた瞬間から本を出版することが許されてる人間やったら気にするかもしれないけど、全員同じ条件で生まれてきて同じように書店に行って本を買って読んで、書きたいと思ったあるいは誰かに書くように言われたタイミングがやってきてるわけだから、そこは一緒なんちゃうかな。

そういうふうに考えてるけど、でもたしかに同業者の先輩や友達から「読んでるとどうしても主人公を又吉らしき人間で想像してしまう」とか「又吉がこんなこと考えてるんだと思って読みにくい」とか言われたことはありますね。