大杉栄が目の前にいたら
惹かれますか?
上野 野枝を書くならば、大杉がもうひとりの愛人、神近市子に刺された有名なスキャンダル「日蔭茶屋事件」は一つのクライマックスです。寂聴さんは、あの事件を『美は乱調にあり』のラストシーンに持ってきました。村山さんはどう書かれただろうと思って大変関心をもって読んだら、内面描写が出てこないで、すべて大杉と市子の会話のやりとりでした。どうしてそうした描写になったのでしょう。
村山 神近市子と大杉の内面は、市子が大杉を刺す前までに両者それぞれの視点から書いておきました。舞台装置が整った段階でくどくど説明を始めてしまうと、せっかくのクライマックスで時間の流れが止まってしまう、それはしたくないなと。おそらく、評伝と思って書いてなかったから、ああなったんだと思います。あくまで小説が書きたかったので。
上野 とても感心しながら読みました。
村山 ああ、うれしい。
上野 男のいい加減さとだらしなさ、女の賭けたものの大きさ。二人の食い違いやすれ違いが会話から浮かび上がってきて、「傍で聞いていたの?」と感じたくらいです。作家の想像力とはこういうものかと感心しました。
村山 ありがとうございます。書く前は、市子はあまり好きなタイプではなかったんです。でも市子の心情を追体験しているうちに、愛おしくなっちゃって。これは刺すよね、よくぞ刺した、と言いたくなるくらい。
上野 市子は理屈を心情が裏切っていくんですよね。市子みたいに半端に知的で頭でっかちだと、男の都合のいい理屈にだまされてしまう。対して妻の保子はなかなかクールな女性ですよね。大杉と別れない上に貢がせているわけですから。
村山 はい。大杉をめぐる女たちの中では、保子が一番好きかもしれないです。
上野 とても知的な人だと思います。どうですか。大杉栄が目の前にいたら惹かれます?
村山 自由恋愛だとかめちゃくちゃなことを言いますけど、放っておけなくなっちゃうかな、という気はします。
上野 「この野郎」と思いながら引きずられそうな気もしますね。いい加減で自己中で、魅力的な男ではありますから。
村山 はい。でも私の推しは村木源次郎なんです。大杉の世話役のようなことをしていて、女子どもにも優しくて。
上野 あっ、私も。一家に一人、村木源次郎みたいな。
村山 わかります! あれだけおふくろさんみたいなサポートをしながら、一番テロリズムに近いところにいるという。その辺りにゾクゾクしてしまって。
上野 かっこいいですよね。村山さんと男の趣味があって何よりです。この小説は群像劇にもなっていて、キャラの濃い「青鞜」の女たちも出てきます。あの中では、私は平塚らいてうに親近感を持っています。彼女はものすごく観念的で、自己の超越にしか関心のない人。伊藤野枝は行動的で情熱的、真似のできない人だけど、傍にいたら、あまり近寄らないで、って。
村山 野枝は、私も友達は無理かもしれません。いいように振り回される気がして。尾竹紅吉とは友達になりたいです。
上野 そうですか。私は割合、紅吉のようなタイプに慕われます。勘弁してよと思うこともありますが(笑)。
村山 実際目の前にいたら面倒くさいんでしょうね(笑)。
上野 もう一つお聞きしたいのが、冒頭の書き出しです。なぜ死者の目線から始められたのですか。
村山 正直申し上げると、上野さんの解説を読んで初めて、「そういうことだったのか」と気づきました。私は、かわいそうだな、とだけ思っていたんです。本当の彼女は、殺されて投げ込まれた井戸の底にまだいるような気がして、このままではかわいそうだと。それで井戸の底に光を当てるところから始めたんですが、その冒頭を〈「声を失った者」に声を与えるのが作家の役割〉と読み解いてくださって、ああそういうことだったのかと。
上野 この死者にはまだ声を与えられていない。その声を与えるのはほかならぬ「私」だと思われた。だから冒頭にあの場面が来たわけですね。その自負が素晴らしいし、それがなければこれほど分厚いものを書く気力は湧きません。
村山 自分の中の深層心理に気づかせていただいて、鳥肌が立ちました。
上野 著者が自覚していないことまでを言語化するのが解説者の役割です。その役割を私が果たせたのなら、大変嬉しいです。
政治的でない発言なんてない
上野 アナキズムは今、時ならぬブームです。栗原康さんの本が売れ、その解説を書いたブレイディみかこさんの『アナキズム・イン・ザ・UK 壊れた英国とパンク保育士奮闘記』や『女たちのテロル』が登場し、高島鈴さんという若い書き手の『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』も出ました。村山さんのこの本も、アナキズムブームを後押しする役割を果たし、文庫化によってさらにブームを推進すると思います。アナキズムブームをどう見ておられますか?
村山 たとえば私、ツイッターをやるんですが、そこで少しでも政治的な発言をすると、フォロワーでもない人からそれはそれは袋叩きにあうんです。
上野 村山さんだけではありません。私のところにもしょっちゅうクソリプがきます。クソリプは気になさらないほうがいいです。
村山 そうなんですけど、打たれ弱くて(笑)。だったら書かなきゃいいんですけど、やっぱり黙っていられなくなって書いちゃうんですね。そうするようになったのは、野枝を知ってからです。7、8年前までの私は、政治的な発言によって著作に何かしらの色が付くかもしれないと、黙っておくことが多かったんです。でも野枝を知ってから、おかしいと思うことを黙っているのは卑怯だと。そもそも政治的でない発言なんてないんじゃないかと思うようになりました。
上野 おっしゃる通りです。
村山 政治とは暮らしのことだと、上野さんも書いてらっしゃいます。
上野 パーソナル・イズ・ポリティカルですから。セックスの体位だって政治ですからね。
村山 そうですよね。そういうことを野枝から、アナキズムからも私は受け取ったような気がしていますし、同じように感じて、声を上げ始めている人がいるのかなと思います。
上野 昨今のアナキズムブームは、政治思想の復活というより“気分”のようです。気分の根幹にあるのは、自分を縛るものから逃れ、何もかもぶん投げて自由になりたいという思い。それだけ閉塞感が強いのでしょう。だから村山さんもおっしゃったように、黙っていられないという機運が高まっているんだと思います。とてもいいことです。
村山 はい。大変だっただけにこの本を書いてよかったと思うことはたくさんあって……私はお兄ちゃん子で、歳の離れた兄が二人いるんです。そのうちの一人が、昔、黒ヘルのアジトに居たらしく。
上野 そうなんですか。じゃあお兄様の薫陶を受けていらっしゃる?
村山 いえ、当時は私どころか親たちも全然知らなくて。一方で父は、シベリア抑留を4年経験して帰ってきた人なんですね。
上野 すごいご家族。シベリア抑留者たちの戦後は大変だったと思います。
村山 はい。この小説の連載を始める少し前に亡くなってしまったので、「お父ちゃんにこれ読んでほしかったわ」と兄に言ったら、「実はな」と。
上野 私はお兄様よりいくらか年上ですが、当時から黒ヘルはレアでしたよ。お兄様にはお父様の影響があった? 反発だったかもしれないですね。
村山 聞いてみたいと思います。そんな話を兄妹でできるようになったのも、この本を書いたのがきっかけです。
上野 先ほど、最近の強い閉塞感のなかで、自由を求めて声を上げる人が出てきたという話をしましたが、そのとき、抽象度の高い自由という理念ではなく、自由を生きた生身の人間が目の前にいることは大きなメッセージになります。百年前の日本でこれほど自由に生きた女性を、村山さんが今の日本に蘇らせた功績はとても大きい。この作品は、必ず後世に残ると思います。
村山 ありがとうございます。上野さんも私たちにとって、そういう存在です。生身の上野さんから勇気をいただいています。
上野 私はしがない元大学教師でございますが、今回、ご指名いただいて光栄でした。