領地加増の謝礼のため安土城へ
四月二十一日、信長一行は無事に安土城に帰着した。
翌五月、今後は家康が領地加増のお礼のため、穴山梅雪を伴って安土城へ出向くことになった。信長は先日のもてなしに謝すべく、「安土への道中、家康に最大の馳走をせよ」と諸大名に命じた。
さらに信長は、家康のために自ら宿舎(大宝坊)を選び、明智光秀に接待役を命じた。
光秀は張り切って京都や堺で珍味を整え、三日間にわたっておびただしい料理を出した。記録には、鶴汁や鯨汁、さらに南蛮菓子の有平糖なども見える。江後迪子氏(『信長のおもてなし中世食べもの百科』吉川弘文館)によれば、一回の食事で二十五種類の料理が提供されたという。
ただ、光秀は十日間もかけて準備をしたのに、急に毛利氏と戦う羽柴秀吉の援軍を命じられ、安土を離れなくてはならなくなった。小瀬甫庵著『太閤記』は、これを恨んで光秀は本能寺の変を起こしたと記し、『川角太閤記』も光秀が家康に腐った魚を提供したので信長に折檻され、これを恨んで信長を倒そうと決意したという。
光秀に不手際があったなら、信長が激高しても不思議はなかろう
真偽は不明だが、先日の家康のもてなしに応えるべく、信長が大いに張り切っていたのは確かなので、もし光秀に不手際があったなら、信長が激高しても不思議はなかろう。
五月十九日、信長は家康を安土城に招き、舞や能を見物させた。五月二十日にはなんと自らが家康のところに膳を運んできたという。そして食後、家康とその家臣たちに帷子を与えた。
五月二十一日、家康は安土を離れて上洛した。信長が家康に、京都、大坂、奈良、堺などの上方見物を勧めたからである。案内として信長は長谷川秀一を付けた。
信長も五月二十九日、わずかな供回りをつれて京都の本能寺にやってきた。羽柴秀吉の毛利氏との戦を支援すべく、自ら中国地方へ出馬するためだった。
いっぽう家康は、京都から大坂へ移り、信長が京都に来た日はちょうど堺に入ったところだった。到着すると堺の代官で茶人でもある松井友閑のもてなしを受けた。翌六月一日の朝は信長の茶匠・今井宗久の茶会、昼は津田宗及の茶会、そして夜は再び松井友閑の茶会に参加した。まさに接待攻勢をうけていたのだ。
しかし翌六月二日、家康は人生最大の危機を迎える。