日本にとっての不吉な前兆

かなり手強いと思われたのがマレー半島からシンガポールに展開している英軍だった。戦前の見積によると、英本国兵1万1000人、インド兵3万~3万5000人、オーストラリア兵2万~2万5000人、マレー兵若干の合計7万人程度とされていた。

しかし、戦意が高いのは英本国兵だけだろうし、そもそもはこれもまた植民地軍なのだから、国軍最精鋭との定評がある第五師団(広島)、近衛師団、そして第一八師団(久留米)からなる第二五軍が向かえば、シンガポールの早期奪取は可能とされた。

そこで第二五軍は、当初配属された第五六師団(久留米)を隣接する第一五軍に差しだすという余裕を見せた。ところが、開戦時の英軍は四個師団と六個旅団を基幹とする12万人の規模にまで増強されていた。攻略後にこれを知っただれもが背筋が寒くなったことだろう。

「勝者は学習せず、敗者は学習する」太平洋戦争の敗戦を決定づけた“日本人特有の戦い方”_3
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第二五軍司令官だった山下奉文中将(高知、陸士一八期、歩兵)は、のちに「敵を軽く見ていたことが図に当たったまでのこと」と苦笑いしていたという(沖修二『至誠通天 山下奉文』秋田書店、一九六八年)。

ともかく、半年足らずで南方資源地帯を制圧したのだから、帝国陸海軍の快挙と酔い痴れるのも無理はないが、緒戦から日本にとって不吉な前兆もあった。ウェーク島攻略戦の苦戦だ。ここはハワイとグアムのほぼ中間で、アメリカは昭和14(1939)年からここに軍事施設を設営しだし、日米開戦時には建設作業員1000人、および警備の海兵隊500人ほどが駐屯していた。アメリカの領土を占領すること自体に意義があるし、ここに哨戒基地を張りだすことにも大きな意味があるとの理由から攻略することとなった。