「栗城が一人で死ぬ分にはいいけど、周りを死なせちゃいけない」

「ガイドにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って」死後も登山仲間たちが栗城史多さんを語りたがらない理由_3
写真はイメージです

エベレストに出発する前、森下さんは栗城さんを酪農学園大学のトレーニング壁に誘ったという。ところが、

「あいつ、上まで行けないんですよ、1年生でも登れるのに」

その1年生も「テレビに出ている有名な栗城さんがこの壁を登れないなんて……」と困惑していたそうだ。

「その前は冬に羊蹄山(1898メートル)に行ったんですけど、あいつ、ボクからどんどん遅れて、結局7合目ぐらいで下りることにしました」

リベンジを口にしながら、栗城さんは技術も体力も前年を下回っていた。

「1回目にあれだけ悔しがってたのは何だったの? 今まで何してたの? って……呆れましたね」

好条件さえ揃えば登頂できるかも、という森下さんの希望的観測には、現地に行く前からすでに暗雲が垂れ込めていた。

単独を謳う栗城さんが「栗城隊」とも名乗る違和感について私が森下さんに話すと、「いや、ボクは栗城隊の副隊長です」ときっぱりとした言葉が返ってきた。理由を尋ねた。

「ボクの仕事は、隊長の栗城を安全に下ろすことではないんです。彼以外のスタッフを守る立場だった。栗城が一人で死ぬ分にはいいけど、周りを死なせちゃいけない、無謀な冒険の巻き添えにしちゃダメだ。他の隊員の命を守ることは栗城にはできない。副隊長であるボクの一番重要な仕事だと思っていました」

このときの遠征で、栗城隊には「不幸」があった。私はこの事実も、栗城さんが亡くなった後に知った。

カトマンズからルクラの空港へと飛び立ったプロペラ機が墜落し、乗っていた栗城隊のシェルパが死亡したのだ。前年登頂を断念した栗城さんをエベレストのC2付近で救助した、テンバさんだった。栗城さんは次の便に搭乗予定だったが、強風により欠航となり無事だった。

テンバさんはダウラギリでも栗城隊をサポートした。BC(ベースキャンプ)マネージャーだった児玉毅さんによれば、「栗城君と同い年で、献身的で強いシェルパだった」という。

実は私自身も、海外でのロケ中に、水中撮影の男性カメラマンが行方不明になる事故を経験している。1週間捜索したが見つからなかった。

危険な海域での撮影とは思えなかった。現地の警察から取り調べも受けたが、何が起きたのか見当もつかず、捜索に当たったダイバーも謎だと言った。撮影は9割方終了していたが、遺族の感情に配慮して番組は放送中止となった。
 
事故の後、私は長くうつ状態に陥った。私が指示を出さなかったら、そのとき彼が海に潜ることはなかったのだ。彼は私にその番組の制作を持ちかけた、いわば企画者でもあった。私がその企画に乗らなければ、企画が没になっていれば、海に入るのが別の日、別の場所だったら……と、いつまでも悔やんだ。

だから私は、シェルパが亡くなったとき栗城さんがどんな行動を取り、どんな登山をしたのか気になった。おかしな言い方だが、この事故はそれまでの栗城さんを変える大きな「転機」になりえたのだ。栗城さんは、不幸を生かすことができたはずだった。