「せたがや子育てネット」松田妙子さんが地域密着の“サードプレイス”を作り続ける理由【私のウェルネスを探して】_1
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引き続き、松田妙子さんのインタビューをお届けします。

世田谷区で、さまざまな子育て支援活動やコミュニティづくりを行う松田妙子さん。松田さんの活動は、世田谷のみならず全国での講演活動や執筆活動、フードパントリーなど多岐に渡ります。後半では、松田さんがなぜ子育てのコミュニティやネットワークを始めるようになったか、半生を振り返りながらターニングポイントになった出来事を聞きます。そこには“子どもを地域で育てる”という強い思いがありました。(この記事は全2回の2回目です。前編を読む)

人が多く出入りし、地域に開かれた家庭で育つ

松田さんは、東京都渋谷区生まれ。大工の祖父、民生委員をやっていた祖母、父と母、妹という家族の中で育ちました。祖父母、母が民謡を教えていたため、お稽古を家でやったり、地元の祭りには家族で参加するなど、人が多く出入りする家だったと言います。父親は会社員でしたが人をよく家に呼び、地域にも開かれた家庭だったと振り返ります。

「私甘いものが好きなんですが、銘菓好きなんですよね。家に来た人がお菓子を持ってきてくれるので、日本中のいろいろなお菓子を知るようになったのがきっかけです。家にあるお菓子を見て、『あ、○○さん来たの?』と当てられるほどでした。しかし社交的だったかと言えばそうでもなく、幼稚園を転園した時は、自己紹介で泣いてしまう子でした」

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中高は一貫校の女子校に入学。勉強熱心な生徒が多い中、松田さんは勉強に熱中できませんでした。高校2年生の時に先生から“東京都青少年洋上セミナー”の誘いを受けます。都内からさまざまな高校生代表が集められ、中国に船で行く船舶研修セミナーでした。

「2週間ほど船で旅をしたのですが、とても大きな経験でしたね。高校ではテニス部、バンド活動でドラムをやっていたりもしましたが、何か強い意思があってやっていた訳ではなかったんです。そのセミナーには男の子も参加していて、小学校の時以来の男子との活動だったのでびっくりした感じもあって。そのセミナーで会った子と再会する時の待ち合わせが、広尾のウェンディーズとかおしゃれなエリアで。今やっているバイトの話も聞いたりして、私が知らない世界の話すぎて、カルチャーショックを受けました」

地元・渋谷の青年館で地域活動に勤しんだ大学時代

高校は「四大に行くのが当たり前」「いい学校にいけ」と無言のプレッシャーが強く、反発していた気持ちも強かったと言います。他校の高校生の自由さを知り、「自分たちがいる世界は狭い世界なんだ」と実感しながらも大学へ進学。福祉学科に入学しました。

「大学は勉強をろくにせず、サイドストーリーがメインでした(笑)。船のセミナーで会った仲間から誘われて行ったのが、渋谷の青年館でした。そこでイベントの実行委員に入りました。代々木公園の野外ステージ周辺を借り切って、年に1回若者の祭典というイベントをやっていました。渋谷区の活動団体の人にブースを出してもらったり、お祭りのステージの企画を考えたり。

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大学3年生のころ、代々木公園で「渋谷区若者の祭典」の実行委員をしていたときのひとコマ。(写真提供/松田妙子さん)

昔はそうやって地域の若者が育っていったんですよね。子ども会、ジュニアリーダー、青年団、成長に合わせてコミュニティも変わりました。一度仕事で外に出ても、また戻って地域のことを考える。団体や仕組みがなくなると、地元や地域の人を考える人がいなくなってしまうんですよ。それは今私がやろうとしている“地域で育てる”ということにもつながります」

大学卒業後は、国立総合児童センター『こどもの城』に就職。プレイ事業部に所属し、遊び場の企画に携わりました。当時はまだ珍しかったパソコン部屋を設置したり、学生時代から人形劇団で活動していた経験を活かして、人形劇フェスティバルを企画したり。「4年半しかいませんでしたが、人と関わる仕事の楽しさを知りました」。

夫の転勤先で妊娠・出産、赤ちゃんサロンをスタート

その後、人形劇団の仲間だった現在の夫が三重に転勤になることを機に結婚。引っ越してから、2年ほどで長男を妊娠・出産します。

「実家が遠く、誰にも子育てを頼れない環境がとても辛かったんです。子ども施設で働いていたにも関わらず、赤ちゃんの気持ちが全く分からない。子どもは0歳でどこにもいけない。『誰かと話したい』『大人と話したい』という思いから、『あいま通信』という小冊子を作り始めました。A4サイズを半分にした紙2枚、4ページの手書きのものでした」

知り合いの人や友人に記事を書いてもらい、松田さんの近況を伝える小さな冊子。それを友人に渡したり送ったりし、いろいろなお店にも置いてもらうようになります。それを機に、1999年に赤ちゃんサロンをスタート。『あいま通信』にも“赤ちゃんサロンを始めます”と宣言し、赤ちゃん連れのためのコミュニティをスタートしました。

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世田谷区のみならず日本中を忙しく飛び回る松田さんはリモートワークが基本。「東京プレイデー」のトートバッグに仕事道具を、プレボルサの斜めがけできるマルチウォレットに貴重品とスマホを入れています。

「実はこれにも、大学時代の青年館の活動が生かされています。場所を借りたい時、まずその地域の町会を見つけ町会長に挨拶に行く。そうすると借りたい場所が借りられます。赤ちゃんサロンは2回目には18組、3回目は25組と参加者がどんどん増えていきました。道に車がずらりと並んでしまい、駐車場がある場所を借りないとダメだなとか、県の違うエリアでもやった方がいいなとか。やりながら、バージョンアップしていきました」

1999年には、夫の仕事で名古屋に転勤。次男を妊娠中だったため活動を抑え、絵本を読み聞かせる会などを行っていました。その後、実家に里帰り出産をしていた時、住んでいたエリアが東海豪雨に見舞われます。産後、名古屋に戻った松田さんは愕然とします。

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仕事道具のPC、スケジュール帳、筆記用具。PCには「WE♡赤ちゃんプロジェクト」の地域限定のステッカーが。

「同じマンションの1階と4階で住んでいた友人同士の関係がちょっと悪くなっていました。沈んだ家と、沈まずにその家を手伝っていた家。災害は、人間関係を壊すんですね。自分に余裕がなくなり、人を許せなくなってしまう。人間関係が、大きく変わってしまいます。自分がヘルシーでないと手伝ったりもできないんですよ。そこで学んだのは、人を作るのは環境だということです。今も子どもにまつわる悲しいニュースがたくさんありますが、その人がどんな状況だったのか、どんな環境に置かれていたのか。それを追求しなくてはいけないと思いました」