1970年代半ばのこと。イギリスでは失業率がどんどん増加していき、他のヨーロッパ諸国からは「ヨーロッパの病人」と呼ばれていた。
労働者たちにとっては不安と怒りの日々。そんな時期に登場したのがセックス・ピストルズだった。
メンバーを集めたのは、ブティック経営者にしてニューヨーク・ドールズのマネージャーも務めたことのあるマルコム・マクラーレン。アメリカでパンクに魅了されたマルコムは、ロンドンに戻ると自身の手で新たなバンドを売り出そうと考えた。
そこで目をつけたのが、自身のブティック「SEX」にやって来る若者たちだ。
マルコムはバンドをやっていたスティーヴ・ジョーンズとポール・クック、店員のグレン・マトロック、そして客のジョニー・ロットンに声を掛けてバンドを組み、店の名前から「セックス・ピストルズ」と名付けた。
放送禁止用語を連発、社長の机の上に嘔吐…「社会の敵」として扱われたセックス・ピストルズ、唯一のアルバムが全英チャート1位を獲れた理由
1977年10月28日、セックス・ピストルズのアルバム『勝手にしやがれ!!(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)』が発売された。活動期間はわずか3年、残したスタジオアルバムはこの1枚だけ。しかし彼らが世界の音楽シーンに与えたインパクトの強さは相当なものだった。そんな伝説のバンドに隠された秘話をお届けする。
ブティック「SEX」にやって来る若者たちで結成

1976年11月、EMIから『アナーキー・イン・ザ・U.K.』でデビュー。ピストルズは時代の最先端を行く奇抜なファッション、ジョニーが叫ぶ過激な言葉、荒削りながらもエネルギッシュなパンク・ロックで注目を集めていく。
同じ頃のロンドン。ヴァージン・レコードの代表リチャード・ブランソン(※1)は、悶々とした気持ちでオフィスにいた。経営は赤字。このままではいずれ会社が潰れてしまう。
ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ピンク・フロイドといった相次ぐビッグネームとの契約失敗は、新興のレコード会社がまだ「二番目の候補」にしか過ぎないことを証明する結果となってしまった。それでは何の意味もないのだ。
そこでヴァージンは二つの選択に迫られる。一つはリスクを取らずに今のお金で生き長らえて小さな会社として継続していくか。もう一つは最後の資金を使って可能性に賭けるか。もちろん失敗すれば倒産だ。起業家ブランソンはもちろん後者を選択した。
そんな矢先のことだった。下のフロアから異常な曲が流れているのを耳にする。ヒステリックな声が「アナーキー・イン・ザ・U.K.」と叫んでいた。思わず階段を走り下りた。
『Sex Pistols - Anarchy In The UK』。Sex Pistols Officialより
「今のは何だったんだ?」
「セックス・ピストルズのシングルです」
※1 リチャード・ブランソン
音楽ファンや起業家でこの名を知らない人はいないだろう。1970年代のレコード店やレコード会社を出発点に、80年代以降は航空、鉄道、金融、通信、飲料、化粧品、健康、映画、放送、出版、そして宇宙旅行といった分野へと事業を拡大。巨大企業集団ヴァージン・グループの会長としてビジネスや社会貢献活動に取り組むだけでなく、時には熱気球による冒険家として世界に旅立つことでも有名だ。
TV番組で放送禁止用語を連発、高級な机の上に嘔吐…
ブランソンは考えた。会社が変化するためには、新しいイメージが必要だ。それには強烈なパンクバンドしかない。
ピストルズが“一流”のEMIと契約していることを知ると、ブランソンはさっそく社長に伝言を残した。「もし“恥”を取り除きたいのなら、私にコンタクトしてください」と。すると先方は秘書経由で「EMIはセックス・ピストルズに関して大変満足しています」と電話で伝えてきた。
しかし、その日の午後、ピストルズはイギリス全土で大騒動を引き起こす。
TV番組『トゥデイ』で放送禁止用語を連発したのだ。翌朝ブランソンが新聞を手に取ると、それは大問題となっていた。
すると、早朝にも関わらずEMIの社長から直接個人的な電話が鳴る。「君はセックス・ピストルズとの契約に興味があると聞いているんだがね」
EMIに出向くと、ヴァージンに移籍させる合意を得たが、正式に決定するにはマネージャーのマルコム・マクラーレンの同意が必要とのことだった。紹介されると、マクラーレンは手を差しのべてブランソンにこう言った。「素晴らしい。今日の午後遅く、君のオフィスに寄るよ」
初対面の60秒以内で相手を信用するかどうか決める術を持っていたブランソンは、奇抜なマクラーレンを見た時にこの男とビジネスするかどうか訝った。
案の定、マクラーレンはオフィスに姿を見せず、翌日になっても電話すらしてこなかった。

ピストルズは、先の見えないイギリス社会で若者が内包していた不満や怒りを取り込んでいき、より過激で攻撃的になっていった。
彼らがもたらした新たなカウンターカルチャーは瞬く間に大きなムーブメントとなり、ピストルズはパンク・シーンにおける最重要バンドとなる。
1977年1月にはベースのグレンが脱退してシド・ヴィシャスが加入。3月、ピストルズはA&Mと契約。バッキンガム宮殿の前で調印式が行われた。王室や資本家に悪態をつく4人のパンクスたちは完全にマクラーレンに操られていた。
そしてこの直後、シドがやらかす。
A&Mの社長室を叩き壊し、高級な机の上に嘔吐して去って行ったのだ。A&Mはブランソンにピストルズをお払い箱にするつもりだと言ってきた。
「私らじゃ、まったく無理だ」
幻の全英チャート1位…新聞メディアがピストルズを「社会の敵」として扱う
マクラーレンは6月の女王陛下即位25周年記念日までに、セカンド・シングル『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を発売したがっていたが、新しいレコード会社はなかなか現れなかった。ブランソンは以前のこともあったので敢えて連絡はしなかった。
そこで「ビジネスマンになったヒッピー」と馬鹿にしていた相手に、マクラーレンはとうとう自ら歩み寄ることになった。交渉のテーブルは逆転。こうしてヴァージンは世間を騒がせるバンドと契約した。
やり手のマクラーレンは、EMIやA&Mのようにヴァージンも手を焼くことを期待した。そうすればまた巨額の違約金が手に入る。
一方、ブランソンはショックも腹も立てなかった。1977年5月にリリースされた過激な歌詞の『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』は当然の如く放送禁止となったが、チャートを駆け上がったのだ。
『Sex Pistols - God Save The Queen』。Sex Pistols Officialより
さらに女王陛下即位25周年記念当日。英国議会の議事堂でもあるウェストミンスター宮殿が面するテムズ川を上る観光船クイーン・エリザベス号の中で、ピストルズは同曲をゲリラ演奏して警察沙汰に。関係者11名が逮捕された。
発売禁止になりかねない出来事だったにも関わらず、この事件はレコードを売るための完璧なPRとなった。
ところが、20万枚を売り上げて全英チャート1位は確実視されるも、トップに立ったのはロッド・スチュワート。問題を重視した英国レコード協会(BPI)とイギリス市場調査局(BMRB)によって操作されたのでないかという説もある。
ピストルズに対する手痛い仕返しはこれだけではなかった。
多くの新聞メディアがピストルズを「社会の敵」として扱い、「パンクを懲らしめろ」という見出しが紙面を飾った。バンドのメンバーが右翼の男たちに襲われる事件もあった。
しかし、こんなことで終わるわけがない。“ヴァージン”と“セックス”・ピストルズ。これはもう運命的な組み合わせだったのだ。
アルバムの発売中止、裁判を経て、全英チャート1位へ
1977年10月28日。セックス・ピストルズのデビューアルバム『勝手にしやがれ!!(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)』がリリース。
脅迫状や嫌がらせの手紙のように、新聞の切り抜き文字を使った派手なアルバムジャケットは、ジェイミー・リードによるデザイン。自らの店舗網を持っていたヴァージンは、各店でこのインパクトあるレコードを宣伝するためにウインドーに大きな黄色のポスターを貼ることにした。

『勝手にしやがれ!!(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)』のジャケット(USM/Universal)。『Anarchy In The U.K.』や『God Save The Queen』などの人気曲が収録された、ピストルズ唯一のスタジオアルバム
案の定すぐにクレームが入り、店長が猥褻広告条例で逮捕。ポスターの撤去だけでなくアルバムの発売中止を脅される。ブランソンも昔同じようなことで逮捕されたことがあったので、その時の弁護士に連絡した。
「警察は“Bollocks”(睾丸)という言葉を使用してはならないって言ってるんだ」
“Bollocks”の正確な意味を定義付けられる人間が必要だった。そこでブランソンは大学の言語学の教授を探すことにした。そしてノッティンガム大学のジェームズ・キングズリー教授が見つかった。
「それは酷い。“Bollocks”は18世紀の“牧師”のあだ名だよ。だいたい牧師ってのは説教の中でナンセンスなことばかり言うから、だんだん“ゴミ”という意味に変化していったのさ」
裁判で教授は“Bollocks”は睾丸とは無関係であること。牧師やゴミであることを丁寧に説明してくれた。検察側は聖職者の心証を害するのではないかと尋ねた。
教授はセーターを脱ぐと、その下に聖職者が着るシャツを見せた。教授は実はキングズリー“牧師”としても有名だったのだ。裁判長は言い放った。「本件は棄却にふす」
ピストルズとの一連の出来事は、ヴァージンに着せられた古臭いヒッピーのイメージを一掃したかったブランソンの思惑通りになった。悪評判は有形資産。
再びヴァージンの知名度が向上するだけでなく、パンクやニューウェーブのバンドが契約する「カッコいいレコード会社」の象徴になったのだ。新しい世代の若者たちが続々とアプローチをかけてきた。
セックス・ピストルズは全国的な“イベント”だった。民衆からの抗議に接しながら生活するのは、ワクワクするほど楽しかった。オスカー・ワイルドがこう書いている。「あれこれ言われるよりもっと悪い唯一のことは、何も言われなくなることである」ってね。(リチャード・ブランソン)
セックス・ピストルズのファーストにして唯一のアルバム『勝手にしやがれ!!』は、全英チャート1位を獲得した。
文・構成/TAP the POP
●引用・参考文献『ヴァージン―僕は世界を変えていく』(リチャード・ブランソン著/植山秀一郎訳)
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