なぜ安倍晋三は森友騒ぎで「離婚したほうがいい」と言われても完全無視したのか…「妻であり、愛人であり、看護婦だった」昭恵夫人
父・安倍晋太郎氏の秘書官時代から40年。安倍晋三・昭恵夫妻をもっとも多く取材してきた作家・大下英治が初めて明かす2人の物語を『安倍晋三・昭恵 35年の春夏秋冬』(飛鳥新社)から一部抜粋・再構成してお届けする。
『安倍晋三・昭恵 35年の春夏秋冬』#4
私たち夫婦ほど惨めな存在はない……
政治家の妻としての安倍昭恵の特徴は、全く権力欲がないことである。
本文にも書いたが、第一次政権で安倍が辞任を発表した後、総理公邸から自宅へ荷物を運んでいる時、車窓から見える街行く人たちがみんな幸せに映り、「私たち夫婦ほど惨めな存在はない……」と思ったという。
しかしそう思いながらも、病気が悪化して病室にいた安倍にこう言った。
「もしこれ以上政治家を続けるのが苦しいようでしたら、お辞めになってもいいですよ。私は、政治家の妻であることに固執はしていませんから」
貧しい中から這い上がってきて権力者と結婚した女性だったら、政治家の妻であること、権力者の妻であることに固執するだろう。それはそれでエネルギッシュで悪いことではないのだが、昭恵にはそれがない。育ちの良さからくるものだろう。

俺は政治家を辞めない。やらなければいけないことが残っている
安倍も安倍で、優しさを持ったお坊ちゃんという側面がある。言うなれば晋三・昭恵は、育ちのいいお坊ちゃま、お嬢様のカップルと言っていい。もし安倍が神戸製鋼に勤めたままだったら、温和な夫婦として、穏やかに一生を過ごせたかもしれない。
また、もしこの時、昭恵に言われて、安倍が政治家を辞めていたら、あのような悲劇的最期を遂げることはなかったかもしれない。
しかし、安倍はきっぱりと答えた。「俺は政治家を辞めない。まだまだやらなければいけないことが残っている」と。
しかしそれでも昭恵は、安倍がもう一度総裁選に出るとは思っていなかった。母の安倍洋子も体を心配して反対していたということもある。
苦労をかけてきたから、好きなことをやらせてあげよう
私は安倍が二度目の総裁選に出馬する一カ月前くらいに、共通の知り合いの誕生パーティーで、久しぶりに昭恵に会った。挨拶で集っている人たちに向けて「昭恵さんは、いずれまたファーストレディーになります」と予言したが、昭恵自身は全くそんなことは考えてもいなかった。
ところが安倍が総裁選に出て勝ってしまった。これでは「UZU」の経営どころではないだろうと、電話で「残念でしたね」と言ったら、「ううん。店はやります!」と言うのでびっくりした。
安倍としては、苦労をかけてきたから、好きなことをやらせてあげようという思いがあったのかもしれない。
あの時、森の言うことを聞いていたら……

「今回、やめたほうがいいんじゃないという意見もあるわよ」
二度目の総裁選の出馬表明前に、昭恵は明確に反対こそしなかったものの、「今回、やめたほうがいいんじゃないという意見もあるわよ」として、こう続けた。
「森(喜朗)先生も、今回の出馬はやめておけと言っていますよ……」
実際、森は安倍自身にも直接こう忠告していた。
「もし今回失敗すると、二度と総裁の芽はないぞ。待てば、必ず安倍待望論が起こる」
森は小泉の後も、安倍ではなく福田康夫に先にやらせようと考えていた。そしてその時も安倍ではなく派閥の長である町村を立てることが頭にあった。
森が言っていることは筋が通っていて、いわば正論だ。森は安倍を信頼していたし、安倍も森を信頼していたが、この時は森の要求をはねのけた。
父・晋太郎が竹下に機会を譲ったために、病に倒れて総理になれなかったことを間近で見ていたため、チャンスがあればそれを逃すまいと考えていた故だろう。
二度目の総裁選、昭恵は「一緒に頑張ろう」
昭恵に「やめた方がいいのでは」と言われて、安倍は敢然と言った。
「いま日本は、国家として溶けつつある。尖閣諸島問題にしても、北方領土問題にしても、政治家としてこのまま黙って見過ごしておくわけにはいかない。俺は、出るよ。もし今回失敗しても、俺はまた次の総裁選に出馬するよ。また負ければ、また次に挑戦するよ。俺は、自分の名誉や体のことなんて構っていられない。国のために、俺は戦い続けるよ」
これほどの覚悟をもって挑もうとしていたのである。
これを聞いて、昭恵は「一緒に頑張ろう」と決意した。
もし森の言うことを聞いて、福田康夫の後に総理になっていたら、一年で辞めることにはならなかったかもしれない。しかしそうなったら歴代最長となる第二次政権はなかったかもしれない。第二次政権の時も、果たして待望論が生まれたかどうか。
安倍は自身の手で、チャンスをつかみ取ったのだ。

妻であり、愛人であり、看護婦だった
第一次政権も第二次政権も、安倍は潰瘍性大腸炎が原因で辞任に至った。十代の頃に罹患した病気で、一時期は病気を克服できたと思い総理に就任したが、激務もあって悪化してしまった。
平成19(2007)年7月の参院選に負けて、8月のインド外遊でウイルス性腸炎にかかり、これで、病気が一気に悪化。下痢がひどくなり、1日に20回から30回もトイレに行かなければいけない状態になってしまった。これではとても総理大臣は務まらない……そう考えて辞任を決断した。
その後、認可されたアサコールという薬で劇的に回復し、持病をコントロールできていたものの、令和2(2020)年に再発し、やはり難しいと辞任……。
話で聞いているだけでは「大変だな」くらいだろうが、実際には地獄である。そして、患者である安倍に一番近くで真摯にそのつど対応したのは、他ならぬ妻の昭恵だ。
つまり、昭恵はある意味で妻であり、時に刺激的であるが楽しませてくれる愛人であり、そのうえ病身を献身的に支える看護婦的な存在でもあったのだ。
「離婚した方がいい」などと
軽々しく言う人はたくさんいた
昭恵が森友問題などで騒ぎになった際、「離婚した方がいい」などと軽々しく言う人はたくさんいたが、安倍にとって昭恵がどれだけ有難く、また申し訳なく思う存在であるかを考えてみなければならない。
難病の病人の世話は大変だったろう。普段はやさしい安倍でもイライラしてきつく当たる時があったかもしれない。しかしそんなことがあっても昭恵は安倍には「嫌なところがひとつもない」と言う。
「昔は『主人のどこがいいですか』と聞かれた時に、『どんな人にも同じ態度を取れる人だ』っていう言い方をしてたんです。35年間いっしょにいて『どこがいいですか』と聞かれると……嫌なところがないんですよ。
だいたい人間、付き合ってると、この人のここが嫌だっていうところが見えてくる。そこは目をつぶろうとか。でも、そういうところが全くない。まあ、わたしの話をもっと聞いてくれないかなとか、多少はありましたけれど。絶対この人のここが嫌だからとか、嫌いになっちゃいそうっていう部分がない。ずっといっしょに生活しながら、これだけ嫌なところが見えない相手は、他にいないだろうなって思っています」
この二人の愛は、世間が思っているよりも、ずっとずっと深いものではないだろうか。
『安倍晋三・昭恵 35年の春夏秋冬』(飛鳥新社)
大下英治

2023年5月18日
1800円
300ページ
978-4864109543
『安倍晋三 回顧録』(中央公論新社)がふれなかった
愛と真実の物語!
増上寺で行われた安倍晋三総理告別式で、昭恵夫人が挨拶でこう言った。
「十歳には十歳の春夏秋冬があり、二十歳には二十歳の春夏秋冬、五十歳には五十歳の春夏秋冬があります。(略)政治家としてやり残したことはたくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後、冬を迎えた。種をいっぱい撒いているので、それが芽吹くことでしょう」
父・安倍晋太郎氏の秘書官時代から40年。
安倍晋三・昭恵夫妻をいちばん数多く取材してきた作家・大下英治が初めて明かす
人間安倍晋三と人間安倍昭恵
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