重労働の日々

コーヒーの木は高さ三メートルほど。一畝に二十本が植えてあり、家族によって二畝、三畝と受け持つ。コーヒー豆の取り入れは、低い枝のものは立ったり、中腰で、高い枝は三脚のハシゴに登って行う。

実をちぎって収穫するから、慣れないうちは掌がマメだらけなる。それでも潰れたマメを布で巻いて作業が続けられた。こぼれたコーヒー豆は、熊手状のレーキでかき集め、ペネーラという篩(ふる)いで土砂やゴミを取り除く。細かいテラ・ローシャの土埃で、身体全体が赤く染まっていった。

なにしろ、一日二人で働いても一袋五十リットルのコーヒー豆しか収穫できず、それでは一日五百レイスから一ミルにしかならない。五百レイスだと三十三銭、一ミルだと六十六銭。三十日間休みなしに働いても十円から二十円ほどだ。

実際にはそれほど働ける日がある訳ではないし、生活費もあるから貯まる金は知れている。日本移民は渡航費など四十円の負債を分割払いする義務がある。掌にマメができようと、腰が痛かろうと、移民たちは休む訳に行かなかった。

採取したコーヒー豆は一袋六十キロ。米一俵と同じ重さだった。最初のうち、フサノには持ち上げることもできなかったが、慣れというものは恐ろしい。

日が経つにつれてコツを覚え、難なく担げるようになっていた。フサノたちはコーヒー豆を詰めた木綿や麻の袋を担ぎ、馬車まで運んだ。袋には番号が振ってあり、監督が手帳に控え、空袋は持ち主に戻される仕組みだ。

あまり知られていないことだが、コーヒーは純白の花を咲かせる。八月末頃から十月にかけて三回ほど咲き、最も花が多い二回目にはファゼンダ全体を可憐な花が埋め尽くす。花が月下美人のように二、三日で薄命な生涯を終えると、コーヒーチェリーと呼ばれるコーヒー豆が実る。

ブラジルに移民した13歳の少女が見た、赤い大地に拓かれたコーヒー農園_1
1930年代のブラジル移民たちによるコーヒー採取風景(フサノたちが働いていたファゼンダとは異なる農園の写真/国立国会図書館ウェブサイト「ブラジル移民の100 年」より転載)
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女たちは農作業のほかに、炊事、洗濯などいくつもの家事をこなしていた。小川のほとりで洗濯板を使って衣類を洗うのは日本の農村でも見られた光景だったが、ブラジルの女たちは腰まで川に浸かって洗濯するし、石油缶に入れた石けん水で洗濯物を炊き、草の上に拡げて晒してから、それを洗濯板に叩きつけて真っ白にしてしまう。

これにはフサノも面食らったが、早く洗濯を済ませることができるうえ綺麗になるので、見習うことになった。

水汲みと薪集めもかなりの重労働だった。ファゼンダのコーヒー乾燥場には大きな水タンクが備えられており、女たちは水の入った二十リットル入りの石油缶を頭に乗せて、自分の小屋との間を何往復もしなければならなかった。

男たちが林を切り拓くと、女たちは薪に使えそうな小枝を集め、その束を頭に乗せて運ぶ。農作業の現場に食料を運ぶのも女で、二つの袋を振り分け荷物にし、前の袋には食料、後ろのほうはビンに詰めたコーヒーを入れていた。

慣れない農作業に追われる毎日だったが、それでもフサノたちはファゼンダの生活になじんでいった。ブラジルの習慣通り、道行く人と朝はボンジーア、昼間はボアタールデと普通に挨拶を交わすようになった。

おはよう、こんにちは、である。家では日本語で会話していた時代だったが、子どもたちは、いつの間にかコーヒーをカフェー、米をアロイスと、ポルトガル語で呼ぶようになっていた。