この頃の東京にはまだ、まん延防止等重点措置(註29)が敷かれていた。
僕にとっては久々のライブ鑑賞であるとともに、感染対策下にあるライブハウスは初めてだったので、一体どんな風に振る舞えばいいのかわからなかったのだが、会場に一歩入るや、懐かしきライブハウス独特の音と光が僕を出迎え、心が一気に沸き立った。
チケットの発行枚数を絞っているからであろう。
フロアは以前のように人がみっしりいる感じではない。
でも、そんなスカスカした空間を埋めるように、DJが爆音(註30)で往年のマニアックなジャパニーズパンクロック(註31)をかけていて、それを聴くだけでゾクゾクした。
しかし残念なことに、赤いくらげの出演は土壇場でキャンセルとなり、代役の龍頭-REUZ-(註32)というバンドに差し代わっていた。
赤いくらげのメンバーのなかに、PCR検査陽性者(註33)が出たためらしい。
やはり、感染症はまだまだまん延中なのだ。
註29 感染症の拡大状況を見て、政府が期間と区域を定めて発令する、さまざまな要請・指示を含む措置。準・緊急事態宣言って感じ?
註30 小さなライブハウスに行ったことがない人は、あの爆音を知らないだろう。すごいんだから。ハラワタに響く爆音は、最初はびっくりするけどクセになる。
註31 ザ・スターリンとかINUとかキャ→とかの曲をかけていて面白かった。上記3バンドについては自力で調べて。注釈書くの、疲れてきた。
註32 僕は初めて観たバンド。OXYDOLLのベーシストがベースを弾いていた。
註33 この頃になると、「PCR陽性」と聞いても誰も驚かなくなった。
OXYDOLLもマスターベーションも、最初期のメンバー構成によるライブだった(註34)。
両者ともドラマーは中村達也(註35)。
BLANKEY JET CITY(註36)のドラマーとして知られる中村達也は、地元の名古屋およびパンク業界では昔から超有名な存在で、高校生の頃から数々のパンクバンドを渡り歩いていた(註37)。
ソリッドなドラムプレイはもちろん(註38)、初期OXYDOLLのメンバーだったときに施していたのと同じ、顔半分の蝶のメイクがカッコよかった。
註34 両者ともに長いブランクがあるバンド。メンバーの皆さんは、音楽活動をずっと続けていた人から、飲食店の経営者となった人までさまざま。
註35 1987年から2000年まで、BLANKEY JET CITYのドラマーとして活躍。以降は音楽活動を継続するとともに、俳優としてもさまざまな作品に出演。
註36 1987年に結成されたスリーピースロックバンド。1990年に当時の人気テレビ番組『三宅裕司のイカすバンド天国』(通称・イカ天)に出演したことからブレイクした。
註37 上記2バンドだけではなく、the原爆オナニーズ、ザ・スターリン、THE GOD、THE STAR CLUBなどでも叩いていた、間違いなく日本の最重要パンクドラマーなのだ。
註38 ステージ上を観察してみたら、見たことのないような変わったドラムセッティングだった。
ライブ自体はどのバンドも最高だったが、やはりフロアはスカスカで、モッシュもダイブも起こらない。
耐えきれない客がたまに雄叫びはあげていたけど、それもまばらで、やはり統制下のライブという感じは否めない。
逆によかった点は、フロアがスカスカなので、ステージ上のパフォーマンスが見やすいということだ。
僕はあまり背が高くないので、ライブハウスでステージをよく見ようと思うと難儀することが多く、このくらいだと本当に見やすくていいなあと思った(註39)。
本当に、久しぶりのライブ鑑賞だった。
数時間にわたって爆音を浴び続けたために生じた、耳の奥で「キーン」と響き続ける耳鳴りと、全身の鈍い疲労感に包まれ、僕は高揚した気分のまま帰路についた。
註39 1998年にダンス☆マンが『背の高いヤツはジャマ』という曲をリリースして小ヒットしたけど、まさにそれ。
後編に続く。