「運や環境」と「本人の意志や選択」
ただし、「ほどほどの自己責任論」は素朴で直感的な価値観であるために、複雑な事情を考慮した判断には向いていない。また、公平な判断ができるとも限らない。
たとえば、ある人が交通事故にあったり病気で障害を負ったりしたという場合には、「その人が運の悪さに由来する不利益を負った」ということは理解しやすい。
しかし、経済的な格差や差別などの社会的な構造に起因する不利益については、「生まれ育ちの違いや差別が、能力や意欲にもたらす影響」についての知識がなければ理解することが難しい。
したがって、人々が各々の状況について負っている責任を公平に評価するためには、「運や環境」と「本人の意志や選択」のそれぞれが人の状況にもたらす影響の捉え方を、知識に基づいてアップデートする必要がある。
ここまで考えることで、ようやく、「個人の身にもたらされる不利益は、社会の補助によって是正される必要がある」という主張は説得力を持つようになる。
たとえば、格差や差別が存在する社会では、その構造によって利益を受ける人と不利益を被る人が不公平に分かれる。だが、そのような社会構造の問題を理解できれば、「社会構造からもたらされる不平等は、徴税を通じた再分配や差別を撤廃するための法律・措置などによって是正するべきだ」と判断することができる。
また、「運の悪さ」という要素が直感による印象以上に多くの人に不利益をもたらしていることを理解できれば、「社会保障や福祉などを通じて、辛い生活を過ごしている人々の状況を底上げすべきだ」と判断できるようになるだろう。
このような考え方は、政治哲学における「平等」や「配分的正義」に関する議論の基本にあるものであり、リベラリズムの前提にもなっている。