ただ面白いから読む
ある日、中学生の時からずっと家に引きこもってきた若者が私の部屋にやってきました。彼は「僕は本を読むのが好きで」といいながら、着ていたコートのポケットからポール・オースターの小説を一冊取り出しました。
「本が好きで小説をよく読むのですが、学校に長く行っていなかったので、漢字がよく読めないのです。それで」と、今度はもう一方のポケットから辞書を取り出しました。私に見せてくれた辞書は国語辞典でした。
「本当は漢和辞典が必要であることはよくわかっているのですが、総画索引を引けないので、やむなく国語辞典に頼っています」
彼から本を読むことが楽しいという気持ちが伝わってきました。私は普段、本を読む時に、彼のような喜びを感じて本を読んでいるだろうかと思いました。
私は彼の話を聞いた時に、辞書のことばかりに目が向いていて、なぜ彼がオースターに興味を持ったかをたずねませんでした。私は当時アメリカ文学に関心がなかったので、オースターの名前を聞いたのはその時が初めてでした。まわりにオースターのことを教えてくれる人がいたのか、どんなきっかけがあってオースターのことを知ることになったのかというようなことをたずねたら、面白い話が聞けたかもしれません。
この長く引きこもっていた若者が私のところにくるまでには長い歳月が必要でした。彼に会う前に彼の両親と彼の将来について話し合いをしていました。私のいいたかったことは非常にシンプルなものでした。どんな人生を歩むかは子どもの課題であって、親の課題ではないということです。子どもが自分で決めるしかなく、親といえども子どもの代わりに生きることはできないということです。引きこもることで不利な目に遭うとしても、その結末は子どもに及ぶのであり、またそのことの責任は子どもが取るしかありません。
子どもが学校に行かなくなれば親は子どもの将来を思って不安になるでしょうが、それは親が自分で何とかしなければならない感情で、親は自分が不安だからといってその不安を解消するために子どもに学校に行ってほしいとはいえません。どれほど親が不安になっても、また、世間の目が気になるということがあったとしても、今後どうするかは子ども自身が決めることであり、親が子どもに代わって決めることはできないのです。
彼は親が子どもの人生に干渉するのをやめた時に、私のところにやってきました。前は親が自分の人生についていろいろと気にかけてくれたのに、最近は親が自分の人生について何もいわなくなった、だからこれからの人生をどう生きればいいかということを相談したいというのです。
その日、彼はオースターのことを話してくれました。彼は長く学校に行っていなかったので、読書感想文を書くことを強いられたりはしなかったでしょう。本を読むことと本について書くことは別のことです。教科書も参考書も投げ出して、好きな本だけを読めたのは彼にとって幸いなことでした。本を読むことの楽しさ、喜びを知っているのであれば、私が力にならなくても、そのことが今後の人生をどう生きるかを考える助けになるだろうと思いました。
私はこの若者と出会ったことで、自分の学び方を振り返ることができました。その後、私はオースターの本を次々に読みました。しかし、そのことを彼は知りません。本があれば一人でも生きていける 本を読む楽しみはそのようなこととは別のところにあるはずです。試験の前日にふと手にした小説を手放せなかったという経験をした人もいるでしょう。
高校の倫理社会の先生だった蒲池澯先生は退職したら若い時に買いためた本を読むといっていました。仕事を辞め身体の自由が利かなくなっても、本を読めさえすれば老年は怖いものではない――これが先生の持論でした。本を読むことで、老いの現実を超えることができるのです。現実を超えるというのは逃避するということではありません。人はどんな状況においても自由でいられるということです。しかし、先生は退職前に亡くなられたので、この願いは実現できませんでした。
退職したら読もう、時間ができたら読もうと思っていると、その日がこないかもしれません。思い立ったらその時に読むのが一番です。
加藤周一が、学生の頃から本を持たずに外出することはほとんどなかったといっています(『読書術』)。いつどんなことで偉い人に「ちょっと待ってくれたまえ」とかいわれ一時間待たされることもないとも限りません。そんな時に、いくら相手が偉い人でもこちらに備えがなければイライラするが、懐(ふところ)から一巻の森鷗外を取り出して読み出せば、これから会う人が偉い人でも、鷗外ほどではないので、待たされるのが残念などころか、その人が現れて鷗外の語るところを中断されるのが残念なくらいになってくるというのです。
この加藤の『読書術』は私の父の書棚から見つけて読み、大きな影響を受けた本です。この件(くだり)を読んだからなのか、私も本を一冊も持たないで出かけることはありません。出かける時に読みたいと思って何冊か持ち出しても、実際外に出た時にどれを読みたくなるかわからないのでたくさんの本を鞄に詰め込むことがよくありました。多くの本を一度も開くことなく帰ることになりますが、何を持っていくかを考えることが既に楽しくて、誰と会うかもどこに行くかも問題にならなくなってしまいます。
文/岸見一郎