平成を代表する巨大経済事件「北海道拓殖銀行(以下、拓銀)破綻」と「雪印乳業集団食中毒事件」の当事者であり、二つの事件で敗戦処理を担った髙橋浩二氏。
事件から20年以上を経た現在、髙橋氏は従業員約200名の中小企業の社長を務めている。巨大組織に二度も裏切られた人物は、今なお組織の一員として日々を送っていた。「会社に頼らない生き方」に多くの共感が集まる今日においても、髙橋氏は「組織で働くこと」にこだわり続けている。波瀾万丈の道を歩んだ髙橋氏に、その仕事観やキャリア観を聞いた。
事件後には「経営再建」が本業になった
髙橋氏は拓銀を離れたあと、拓銀の大株主でもあった雪印に転職し、国際部や医薬品部でいくつかの功績を挙げた。しかし日本企業独自の内輪な風潮は根強く、そこに馴染まなかった髙橋氏は、退職を考えながら経営企画室へ異動する。そして起こったのが、集団食中毒事件。社内に残り、症状のある人々へのクレーム対応に奔走した。
あの事件はなぜ起きたのか。当時を思い返して、髙橋氏はこう話す。
「当時の再建計画の軸として、事業再編や事業譲渡など経済合理性から鑑みた施策と、社内文化の変革が挙げられました。しかしこの後者が非常に難しかった。私が『トップダウンの関係性をやめた方がよい』と提言しても、結局採用されませんでした。つまり、社内に蔓延っていた『忖度が働く文化』が原因だと思うんですよね。雪印側はそう思っていなかったかもしれませんが…。このあと複数の大企業が大規模な不祥事を起こしますが、その根っこは全て同じだと思いますよ」
集団食中毒事件への対応やネスレ・スノーの設立を終えた髙橋氏は、2005年にコンサルタントとしての関係も含めて雪印乳業を離れ、拓銀出身者5人で経営コンサルティング会社に専念する。コンサルタントとしては、主に中小企業の資金調達やM&Aなど財務金融分野を担当した。特に得意としたのは、海外事業の撤退。不採算事業を清算し、経営の痛手を最小限に抑える案件だった。拓銀や雪印乳業の事件を経て、いつの間にか髙橋氏は「組織の崩壊を食い止めること」を本業としていた。