そして、イラン革命へ
彼がそれをいかに問題視したかは、次の声明から容易に理解できる。
イランにもはや祝祭はない。……我々を、そして我々の独立が売り払われたのである。すべての米国軍事顧問、その家族、技術スタッフ……らがイランでいかなる犯罪を起こそうと、……バーザールの真ん中で米国人コックがあなたのマルジャにテロ行為を働こうと も、……イランの警察に彼を阻止する権限はなく、イランの裁判所にそれを裁く権限はない。
……政府はイラン国民を米国の犬以下の存在にした。……米国大統領は我が国民にとって世界で……そして世界中の人々にもっとも嫌われた人間である……今日、コーランが彼に対する敵であり、イラン国民が彼に対する敵である。米国政府はこの点を思い知らねばならない。……今日我々のすべての苦難は米国に発している。我々の苦難のすべてはイスラエルに発している。イスラエルも米国に発している。……私は今や革命のなかにある。(1964年10月26日)
あまりの辛辣かつ扇動的な演説内容から、ホメイニーはその1週間後に逮捕され、即刻国外に追放された。以後、シャー政権は、1978年1月の反シャー運動発生までの13年間、安定と繁栄の時代を過ごすことになる。
その間、現状打開の政治イデオロギーとして、民族主義も社会主義も色褪せ、アケメネス朝ペルシア(紀元前550~前331年)にまでさかのぼって、イランの民族的アイデンティティを捉える「国家ナショナリズム」に対抗するような政治的イデオロギーがもはやないように見えた。
だが、ホメイニーは追放先イラクにあるナジャフの神学校で、イスラーム・シーア派教義を革命のイデオロギーに読み替える講義を行うなど、 来るべき革命に備えていた。
文/吉村慎太郎 写真/shutterstock