郷土愛はそもそも教えられることなのか
そのことは『学習指導要領』の「特別の教科 道徳」の欄に、はっきりと記されています。
我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、先人の努力を知り、国や郷土を愛する心をもつこと。(『小学校学習指導要領』)
優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献するとともに、日本人としての自覚をもって国を愛し、国家及び社会の形成者として、その発展に努めること。(『中学校学習指導要領』)
「特別の教科 道徳」とは、郷土なり、日本なりを愛すべきであるという価値観が前提とされ、それを押しつけるための科目なのです。この点でも他の教科との決定的な差異を見ることができます。
しかし、実際には人が何をすばらしいと思うか、何を愛するかということは個人の感性によるのであり、はっきり言って、自分でさえも、どうにかできるものではないのです。
愛は、感情に属する事柄であって、意欲のそれではないから、私は愛そうと思って、ましてや、愛すべきである(愛へと強制されている)からといって、愛することができるわけではない。(カント『人倫の形而上学』)
愛は感情に属するものなのです。感情というのは、意欲したからといってどうこうできるものではなく、自分自身でもコントロールすることはできません。そのためカントは、何らかの感情を持つべき義務など存在しないと説くのです。
愛という一般的に肯定的に捉えられる感情のみならず、嫌悪や軽視といった否定的な感情についても同じことが言えます。そういった感情を持つべきではないという義務も存在しえないのです。いかなる感情にせよ、国家といえども、個人がどのような感情を抱くかということに口出しすべきではないし、口出ししたところで、どうにもならないのです。
加えて、ここには、もう一点、注意すべき点があります。
仮に子供たちが祖国日本を大好きになったとします。それも熱狂的にです。ただでさえ、一方的な情報しか与えられておらず、その上、その対象を熱狂的に好きになってしまった場合、その者の視野であり、思考でありは、著しく制限されることになるでしょう。
惚れ込んでいる者は、愛する相手の欠陥に対しても不可避的に盲目となる。(カント『人間学』)
一方的な情報しか与えられず、しかも熱烈に愛してしまった場合、その者は冷静に客観的に物事を見ることができず、惚れ込んでいる対象(この場合は日本)の欠点が見えなくなってしまいます。またはぼんやりとは見えていても、見えない振りをしてしまうのです。
日本の教育現場は、そういった人間を作り出すための場なのでしょうか。それでいいのでしょうか。そこに危機感を持つのは私だけではないはずです。
ちなみに私自身は、自分を育ててくれた日本という国に感謝しています。だからこそ、間違った方向に進んでほしくないのです。
文/秋元康隆 写真/shutterstock