極寒のニューヨークに、強行スケジュールで伊達公子が渡米した訳……

2018年1月31日——。真夏のメルボルン開催の全豪オープンが終わった直後のニューヨークに、伊達公子の姿があった。
メルボルンで解説等を務めた彼女が、極寒のニューヨークに滞在したのは、わずか二日間。忙しいスケジュールの合間を縫って強行渡米を敢行したのは、ある人物を“偲ぶ会”に参列するためだった。

伊達公子、錦織圭……テニスの名選手が足しげく通う「勝ちメシ」。テニス界の世相が反映されるレストラン“Nippon”。_1

会が執り行われたのは、マンハッタンの中心地に位置する和食レストラン、“Nippon(日本)”。伊達をはじめ、多くの著名人に見送られた故人の倉岡伸欣氏は、この地に50年以上根を張り、多くのテニス選手たちの食を支えた老舗レストランのオーナーだ。

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偲ぶ会の献花台。写真は若き日の倉岡氏と、奥様の璄子さん。璄子さんの死の僅か2か月後に倉岡氏も世を去った

「倉岡がいつも言っていたのは、“なんでも一流を目指せ”。テニス選手も一流になるために来ているのだから、ヘルプしようじゃないかという感じでした」

倉岡氏の思い出をそう語るのは、現在、レストラン日本のCEOをつとめる木下直樹氏。倉岡氏の下で40年働き、その薫陶を受けた後継者だ。
 
レストラン日本とテニス選手たちとの関わりは、1980年頃まで遡る。ジュニア大会のために渡米した、当時15歳の岡本久美子選手の面倒を見たのがきっかけだった。
“なんでも一流を目指す”がモットーの倉岡氏が支援したのは、政界財界人、芸術家やアスリートまで幅広い。世界的なコンダクターの小澤征爾や、ニューヨークヤンキーズで活躍した松井秀喜も常連だった。

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こちらは、ヤンキース時代の松井秀喜が愛した、その名も“ゴジラカレー”。松井さんの母親から直接レシピを伺い生まれた。玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん……あらゆる野菜がルーに溶け込み、甘くも深いウマ味を醸成。何度食べても飽きることのない、まさに母の味

ただ一貫したのは、「自分の力で道を切りひらいた人なら」という指標だ。世襲性の世界には興味がなく、だからこそ歌舞伎のニューヨーク公演から差し入れ依頼の声が掛かったときも、応じなかったという。

唯一の例外が、五代目坂東玉三郎。養子として、努力と実力で地位と名声を獲得した稀代の女形のことは、全力でサポートした。その際、朝昼晩とホテルに食事を届け、お世話をしたのも木下氏だ。

「お前は身体が大きくてガサツだから、玉三郎さんの爪の垢でも煎じて飲ませてもらってこいということで、僕が担当することになったんです」

185センチの大きな体を揺らし、木下氏は照れた笑いを顔に広げる。信念に共感し魅力を感じた人には、とことん尽くす――それが倉岡氏の理念だった。

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現レストラン日本CEOの木下直樹氏。慶應大学バレーボール部OBから、倉岡氏を紹介されたのが縁。ちなみにそのOBとは、元日本バレーボール協会会長の松平康隆氏(故人)だ