日本にいても異文化交流はできる

――はるかさんがもし日本で高校生活を過ごしていたらと考えると、インドで3年を暮らして書籍を出した今とは、まったく違う今がありそうですね。

こういう稀有な体験がなければ本は出せなかったので、インドが本を書かせてくれたと今は思います。この経験は書き残しておかなきゃという気持ちもありましたし、言語化は、自分の考えを整理してモヤモヤを晴らす作業でもありました。経験を言葉、さらに物語に落とし込むことで、前後のつながりがわかったり、新たに見えた面もたくさんあって。

たとえばインドの貧困問題は、当時は違和感があっても、言葉にはできていなかったんです。誰かに伝えようとしたときに初めて、周りの人たちはどう考えているんだろうとか、自分が貧困のさなかにいる人たちに対して抱いた思いはどこから来たものなのか、深く考えさせられました。もちろんすべてが明解になったわけではありませんが。

プリクラ撮れないタピオカ飲めないディズニー行けないと嘆く自分。対し、今日をなんとか生き延びて、明日のために一銭でもほしいこの物乞いの子ども。
ガラスたった一枚を隔てた向こう側にいるあの子は、ブルーライトに白々と照らされる外国人の横顔を見て、なにを思うのだろう。

――インドでの3年間は、はるかさんの将来に対するビジョンにも影響を与えましたか?

インドでの経験を通して、自分はまだ知らないことが多すぎると気付いて、逆にわからなくなってしまった部分もあります。それが本として形になってからもやりたいことが確実にわかったわけではなく、すごく迷っています。そうして悩んだり迷ったりする時間があるのは恵まれたことだと思えば思うほど。

これからもいろいろな人たちと出会い、コミュニケーションをとることで、自分の手の届く範囲でひとつひとつ、探していくしかないのかなと思います。

――知らないことが多いとわかったのは、世界の広さを感じることでもあったと思うのですが、海外の大学への進学を決めたのも、それが大きかったですか?

外に出たいという気持ちだけがあったわけではなくて、異文化間の翻訳によって、新しい視点や俯瞰する視点など、得られるものがあると実感したのが大きかったです。本を書くことも、自分の経験を言語に翻訳する作業だったので。これからも、文化の行き来を通して、将来や自分の置かれたコミュニティへの視点を深められるんじゃないかなと思っています。

でも異文化との交流って、違う国や地域の人との間だけではなく、誰とでもできる気がするんです。

似た環境で育った人でも、深く話してみると違う視点を持っていたりして、それも異文化と言えるかもしれない。日本でインドのことを考えるときも、まったく違う話題について日本で人と話しているときにも、日々新たな発見や出会いはあります。

コミュニケーションを通じて、つながることも、違いを認識することもできて、それもひとつの翻訳だと思いますね。