国語力の低下が想像力の欠如につながる

小学校の先生が興味深い実例を示してくれました。小学4年生の教科書に載っている戦争文学に『一つの花』(今西祐行)があります。こういう話です。

戦中の食糧不足の中、お腹を空かせた幼い娘は何度も食べ物をねだるのが癖になっていました。ねだれば、もらえると思ったからです。父親が出征する日も、彼女は何度もおにぎりをねだりました。父親はおにぎりをすべて渡した後、別れの直前に駅のゴミ捨て場のようなところに咲いていたコスモスを摘んで手渡して戦争に行きました。戦後、父親は帰ってきませんでした。しかし、家の庭にはコスモスの花が咲き乱れていました――。

先の先生が子供たちに「なぜ戦争に行く前に、父親は娘にコスモスを渡したのか」と尋ねたところ、「娘が騒いだから罰として与えた」とか「お金儲けのため」といった答えが続出したそうです。

戦争を知らない子供たちが当時の状況を細かく理解するのはたやすいことではありませんし、自由な読み方を否定するつもりはありません。ただそれを差し引いても、前後の文脈や、戦争へ行く父親の立場を考えれば、「騒いだ罰」と捉えるのは適切ではないと思います。

では、なぜ、そう考えられたのでしょう。それは、他者の胸の内を言葉によって想像し、状況を適切に捉える力が弱いためです。常識に基づいた想像力を駆使して行間を読み取る力がないので、プログラミング的な思考で、「ゴミ捨て場に咲く花を渡す=罰」となる。

その先生は、これは単なる誤読ではないと主張されていました。誤読以前に、言葉をベースにした情緒力、想像力、論理的思考からなる国語力が不足しているから起こる解釈なのだ、と。国語力の不足によって行間を補えないということです。

そういえば、現在、小説の世界では恋愛文学の衰退が著しい状態にあります。文芸編集者によれば「他者の心の微妙な機微を感じ取ることが苦手な読者が増えていることが一因」なのだとか。