ドイツでも「核共有」の再考を求める声
では、このところ日本でも提唱されている「核の共有」とはどのようなシステムなのだろうか。核共有とはNATOとアメリカが行っている核兵器の管理システムを指す。
アメリカの核兵器を同盟国に配備し、その同盟国が他国から侵略を受けた時に、その核兵器で反撃するというもので、現在、ベルギー、オランド、イタリア、ドイツ、トルコの5カ国が自国軍の基地にアメリカの核兵器を保管している。
ただ、使用は配備国の独断ではできず、アメリカ大統領と配備国の首脳間の合意が不可欠となる。また、アメリカ側が使用を決定すれば、配備国側はそれを拒否できない。
私の母国、ドイツがアメリカとの「核の共有」に踏み切ったのは東西冷戦が続いていた1953年のことだ。ソ連軍の西側への侵攻に対するリスポンス(危機時の対応)として採用された。
ただし、ドイツは核弾頭を搭載できるミサイルを保有していないので、有事にはB61と呼ばれる戦術核(敵軍の自国領土への侵攻を止めるため、戦場単位で使用される比較的威力の小さな核爆弾)を戦闘機に搭載し、至近距離から敵軍(ソ連軍)のターゲットに投下するシナリオになっている。
NATO軍が自陣営の西ドイツ領内で核兵器を使うことは日本の人々には想像しにくいことかもしれないが、当時は東ベルリンにソ連軍基地があり、有事にはそこから強力な戦車部隊が西ベルリンに侵攻することが予測されていた。「核共有」はそうした現実的な有事への対応策として練られたシナリオだったのだ。
いまでは旧ソ連に代わり、ロシアがNATOの仮想敵国になっている。そうなると、NATOとロシアの紛争が戦争へとエスカレートした場合、ドイツの操縦士が戦闘機に搭載した核兵器をドイツ領内に進攻した敵軍だけでなく、ロシアの軍事施設、あるいはロシア領内の市街地に投下するというシナリオも浮上する。
本来、こうしたシナリオはロシアによる核兵器使用への反撃に限る場合のはずだが、「使用を前提としてこそ抑止たりうる」という核抑止力の論理を考えるとき、こうした危険な作戦が現実味のあるひとつのシナリオであることを誰も否定できないだろう。
しかし、ドイツの操縦士がロシアに原爆を落とすというのは、はたして現実的な作戦なのか、とても懐疑的だ。ドイツ国内の現実主義派がこのような危険なシナリオについて議論することを拒否するのは、こうした懐疑論の存在をよく理解しているからだろう。
現在、ドイツ政府の軍拡ムードは驚くほどの盛り上がりをみせているが、「核共有」の再考を求める声はいまも連綿としてあるということは知っておいてほしい。実際、私も「核共有」がもたらす最悪の事態を幼い頃から考えざるを得なかった。
私は冷戦時代の西ドイツで生まれ育ったが、周囲には多くの米軍基地があり、そこには核弾頭を搭載したミサイルと戦闘機が配備されていた。そのため、第3次世界大戦が勃発すれば、私の住む地域はソ連軍の核攻撃の対象になると覚悟したものだ。
冷戦当時の1983年に製作された「The Day After」という核戦争の恐怖を描いた映画も身近に迫った危機感を助長したが、「あくまでも映画の中の話であり、現実になることなんてないさ」と自分に言い聞かせながら鑑賞した記憶がある。幸いにもソ連の崩壊によって東西冷戦は終了し、それ以降、核戦争はまた映画の世界の話になった。