「芸人なら、これを笑いに変えてみろ」

お笑い米軍基地は、スポンサーも募らない。小波津が表現したいと思っていることを思う存分表現する。それがお笑い米軍基地の生命線だからだ。

沖縄県民は前売りチケットを買ってまで演劇等を観に行く習慣があまりない。そんな中、お笑い米軍基地のチケットだけは、2000円という低価格なこともあって毎年、発売するなり順調にはけていく。

客層は老若男女、じつにバラエティに富んでいた。そして、特に年配の客は、キワドイ内容のものほどよく笑う。というより、喜んでいる。よくぞ、このネタを扱ってくれたと。コントの中には、ロシアとウクライナの戦争を扱ったものもあった。小波津は言う。

基地を笑え! 戦争を笑え! 沖縄「お笑い米軍基地」タブーへの挑戦_3
スポンサーも忖度もなしで”キワドイ”ネタ満載の「お笑い米軍基地2022」。小波津は「基地問題でいつも映し出されるのは沖縄の人の怒りの部分ばっかり。でも、怒るよりも自分たちをさらけ出して、笑ってもらった方がいい」と語る

「お笑い米軍基地のコントって、社会風刺みたいに思われていて、もちろん、そういう部分もあるんですけど、僕は単純に人間をネタにしているだけなんです。プーチンだろうが、ゼレンスキーだろうが、人間であることは同じ。

チャップリンも『独裁者』の中で、独裁者のわざと間抜けな部分を描いたりしている。だから、共感できる。人間としての弱さとか、滑稽さは世界共通じゃないですか。そういう目線で見ると、意外と冷静に物事が見えてくることもあると思うんですよ」

公演のオープニングで、ロック調の音楽に合わせ、スクリーンに次々と字が浮かんでは消えていった。

〈基地を笑え!〉
〈戦争を笑え!〉
〈人間を笑え!〉
〈世界よ これがオキナワンコメディだ!〉
〈今年もいくぜ!〉
〈お笑い米軍基地2022〉

お笑い米軍基地が産声を上げたのは、2005年のことだ。きっかけは、その前年、8月13日に起きた沖縄国際大への米軍大型輸送ヘリ墜落事故だった。死傷者こそ出なかったものの、あわや大惨事になりかねないほどの事故だった。

その日は小波津の30歳の誕生日でもあった。当時、小波津は東京で「ぽってかすー」というコンビで活動をしていたものの、芸人として、うだつが上がらない日々を送っていた。

「知人から電話でヘリが墜落して大変なことになってるって教えてもらったんですけど、東京だとニュース番組をはしごしても、ぜんぜん情報が入ってこなかった。翌日の新聞も、アテネ五輪が開幕したことと、巨人軍のオーナーが辞めたことがトップニュースで。ヘリ墜落よりも、プロ野球のオーナーが辞めたことの方が重要なんかと愕然としましたね」

事故の2日後、8月14日付の地元紙『琉球新報』が届いた。定期購読していた琉球新報は、1日遅れで届くのが常だった。同紙のトップ記事は、ヘリ墜落に関するニュースだった。〈米軍ヘリ 沖国大に墜落〉という特大の文字と、黒煙を上げるヘリの写真。それを眺めながら、わじわじ(腹が立つ)してくると同時に、小波津は芸人として自分が試されていると思った。

「芸人なら、これを笑いに変えてみろ、って」