明治の世から難航する「女性の自立」を考える
―― カシと巌本の二人は夫婦としてのあり方も革新的で、それは結婚当初の描写からもうかがえます。新婚旅行でカシが巌本に渡したという「詩」には、カシの覚悟を感じます。
アメリカの女性詩人アリス・ケアリーの書いた『花嫁のベール』ですね。結婚しても、私はあなたの所有物ではない、私は私であり続ける、もし人としてあなたの成長が止まったら、あなたの元から飛び立っていく翼はある、という。あれは史実なんですが、押しつける感じにはしたくなかったので、ちょっとユーモアを交えながら同意を求める感じにしました。
でも、そういうことを女性から言うってなかなかできませんよね。今でこそ、結婚前に色々と約束事を決めようという風潮も出てきているようですけど。それにはすごく賛成です、私。だから、カシは本当に進んだ人だったんだと思います。
加えて彼女は、この頃すでに結核を患っていた。巌本もそれを承知で結婚した。彼女は、巌本が病も含めて自分を受け入れ、同志と認めて結婚してくれたことにすごく感謝していたと思うんです。同時に、「この結婚生活はこうですよ」ときちんと提示できる人だった。そこには感動しますね。しかも単なる言葉でなく詩にしたところが、文学者だなあと唸るし、かっこいいなあと思います。
―― こうした二人のエピソードにも象徴されるように、本書では、女性の自立が一つのテーマになっていますね。
そうですね。精神的な自立とか経済的な自立といいますが、一体どういう状況になったら自立したといえるのか。当時の女性は精神的な自立をしたとしても職業がなく、男性に頼らざるをえなかった。でも今は、当時と比べれば選択肢が増えています。だから女性にいま一度、自立って何だろうというのを、カシを通じて少しでも考えてもらえたらなと思うんです。男性も同じだと思いますが、一歩引いて、どういう人生を歩みたいかのイメージを持つというか。それは、私自身にも当てはまることだったんです。ずっと私の悩みでもあったし、自分が通ってきた道が果たして自立だったのか、何かに依存をしていたのか、そう自問自答しながら書いていた部分がありましたね。
―― 『花嫁のベール』にも出てくる「翼」という言葉は、本書のなかで繰り返し登場します。タイトルも『空を駆ける』です。どのような思いが込められているのでしょうか。
やはり、人がどう生きるかを翼になぞらえたというのが大きいですね。翼とは「自由」とも少し違って、「私は大丈夫、自分を持っている」という自意識のようなもの。何かに取り組もうとするとき、翼があることや、それを自覚できていることはすごく大切で、それが救いや強さになるという意識がずっとありました。『空を駆ける』というタイトルも、そこからイメージしたんです。カシの、自分の意識を改革しながら進んでいく姿は空に象徴されると思うし、キュッと押し込められていた明治の女性たちが抱いていたであろう「もっと自分の翼を広げたい」という心の叫びも込めました。
日本の女性や子どもたちのための物語を
―― 翻訳の仕事をしていたカシは、やがて、アメリカの女性作家バーネットの書いた『リトル・ロード・フォントルロイ』という、『小公子』の原書に出合います。
ちょうどあの頃のカシは、日本に紹介すべきよい海外作品がないかと探していた時期だと思うんですね。『小公子』には、封建的な身分制度に近い環境とそんななかで子を育てる母の強い愛があった。それがもちろんカシの胸を打ったわけですが、そこにはやはり、彼女がミッションスクールに通っていたことの影響も大きいと思います。キダーのように異国からやってきて文化の異なる子どもたちにものを教えたり、男性と対等な関係を築いたりする女性をカシは見てきた。そうした姿に刺激を受けていたからこそ、この物語を日本の女性たちに届けるべきだと考えた。また、カシにも子どもが生まれ、母親としての自分と、一人の女性としての自分の狭間で葛藤もあった。それで『リトル・ロード〜』に出合ったとき、これこそ私の求めていた作品だと感動したのではないかと思います。
―― カシはその後、「創作」にも興味を抱いていきます。カシが物語を生み出す瞬間の描写には、思わず引き込まれました。作家だからこその表現といいますか、カシが梶さんに乗り移ったかのような印象も受ける描写でした。
いえいえ、私は本当にそんな偉そうなことは言えないんですが、ただ、書いているときって何も音が入ってこないんですよ。何時間座っていても周りで何が起きているかわからないぐらいに。でも、そういうふうに創作の世界に入り込んでいるようなときは怖い。あとから見返したら夜中に書いたラブレターみたいだった、なんてこともありますしね。創作といっても何かしらの実体験はベースにするんですが、そこから、どこをどう膨らませていくかを考えるのが一番大変で、一番楽しいところなんです。その楽しさや苦しさを知ってしまうと、沼に入ってしまうのかもしれない。多分カシにも、そういう感覚はあったのではないかと思います。
―― カシの創作した『着物のなる木』も面白い物語ですね。
そうなんですよ。彼女が好きだった『若草物語』や、翻訳した『小公子』などは、わりと現実の世界の話ですよね。でも、カシが書いたものってちょっとSFっぽい。また別の一面というか、文学世界も持っていた人なんですよね。だから、もし病で倒れなければ、児童文学のファンタジーが書けただろうし、児童文学者として生きていけたのではないかと思います。本当にもったいないし、残念ですね。
いや、それにしても、たった6行のコラムとの出合いがまさかこんなふうになるなんて。単行本で400ページ近くになってしまって。でも、そういうものを書かせていただけたのはカシのおかげですし、ありがたいことだと思っています。