蚊帳の外に置かれていた安倍氏
当初は小泉訪朝を準備するのが目的ではなく、諸懸案のなかでとくに拉致問題を解決するための交渉を進めるのが主眼であった。
田中氏はそれから週末を利用して、北朝鮮の軍人で国防委員会に所属していた「ミスターX」こと柳京と、2001年10月から2002年9月までのほぼ1年に約30回の極秘交渉を重ねていった。最初の会談は中国の大連、その後はマカオや上海などで行われた。
田中氏は土曜日の午後に日本航空機で移動し、夕方から翌日の昼まで交渉、日曜日中に日本に戻ることをほぼ2週間にいちど繰り返した。協議が進むにつれ、核問題、ミサイル問題、過去の清算など、多様な問題の解決への突破口を開くには、首脳会談の実現を念頭に置いたほうがいいと田中氏は考えるようになった。
この交渉の結果が小泉総理の電撃訪朝であり、その果実としての日朝平壌宣言だった。
「これ(有田注・小泉訪朝)に先立つ1年の間、私は北朝鮮と水面下の交渉を行った。長い交渉とはいえ、これは外からは見えない水面下の交渉であった。その結果、小泉首相の訪朝は唐突に受け止められた」
「とりわけ秘密保持についての総理の指示はとても厳格だった。総理、官房長官、官房副長官(事務)、外務大臣、事務次官、そして交渉担当者たるアジア大洋州局長というラインに限る。とにかく少数に限れというのが、総理の強い指示であった」(田中均『外交の力』)
「とにかく少数」とは、具体的には、8人である。官邸では総理、官房長官、古川貞二郎官房副長官の3人のみ。外務省では大臣、事務次官、アジア大洋州局長、北東アジア課長と通訳の事務官の5人である(竹内行夫『外交証言録』)。
「官房副長官(事務)」は、本来官僚出身者が就くポストだ。政務の官房副長官だった安倍晋三氏が小泉訪朝を知らされたのは、国民に公表されたのと同じ8月30日だ。安倍氏自身が、2002年10月10日の衆議院外務委員会で、こう答弁している。
「確かに、私が知りましたのは、発表された30日の朝でございます」
私邸から官邸へ向かう車にかかってきた電話で、突然知らされたのだった。
小泉総理は、拉致問題に関心が強い安倍氏に伝えると、情報が漏れると判断していた。福田康夫官房長官は事前に知らせようと進言したが、小泉氏は国民と同時でいいと主張した。福田氏は「かわいそうだから」とさらに説得し、お昼のNHKニュースが速報で報じる前に知らせることになった。